文字サイズ: 12px 14px 16px [夏の終わり]

 その日、ピッコロは珍しく町中を飛んでいた。いや、町中と言っても悟飯の大学がある辺りなので、人間から言わせると十分田舎ではあるのだが、ピッコロにとっては人間の目に触れそうな場所を飛ぶこと自体があまりない。だが、これも全て悟飯が呼び出したからだ。
 ぽつぽつと並ぶ民家の上空を真っ白なマントをはためかせて飛ぶ姿は、下から見ればさながら美しい鳥が羽を広げているように見えるだろう。それこそ、晩夏のまだまだ湿り気の残る風ですらも涼風と思わせてしまうような、ぽとっと心に一滴のミントを落とされた気分になるような。
 少し西に傾いた太陽の光を受けながらたまにちらりと下を見やる。すると悟飯が建物の窓から手を振っている姿が目に入った。それを合図とするかのようにピッコロはすうっと速度を落とし、周りに他の人間がいないか確認してから降下を始めた。ばたばたと音を立ててマントが風になびく中、窓の前でぴたっと静止し、悟飯の歓迎の言葉を受けながら部屋の中を見て。
「すまん。用事ができた」
 そんな見え透いた嘘をついて再び上昇を始めようとしたピッコロの足首をがしっと強い手が掴んだ。もちろん悟飯だ。
「またまた、ピッコロさんたら」
「そうよ。別に入ったって文句言いやしないし、ちゃんと掃除だってしてるわよ」
 横からひょっこり顔を見せたのはだった。だが、ピッコロの渋い顔は変わらない。
「何が悲しくて、オレがこんな狭い部屋の中に入らねばならん」
「でもここより狭い悟飯くんの部屋には入るらしいじゃない」
「それは……。この部屋だってお前がいなければ入っていた」
「あのね。ここは私の部屋なの。私がいないわけないじゃない」
 ねえ、と悟飯を見ると、彼もこくこくと頷く。そして、もとより力を込めていた腕によりいっそう力を込めると、ずるずると綱引きの要領でピッコロの足を室内へと引きずりこもうとする。
「ちょ……やめろ、悟飯!」
「いいえ、やめません!」
 いつからこんなに強情になったのか、一瞬の隙をつき、その逞しい両腕でピッコロの両脚を抱え込みぐいぐいと引っ張る悟飯と、すでに体の半分以上を引きずり込まれながらも窓枠に手をかけて必死に抵抗するピッコロの攻防がいくらか続いたか。やはりと言っては何だが、ついにピッコロは手を離し、窓際に置かれたソファの上にどすんと落ちる。
「ナメック星人捕獲作戦成功!」
「任務完了です!」
 そう言いあってけらけらと笑い声を立てる二人に両脇を挟まれ、まさしく逃げ場を失ったピッコロの前に、ひんやりとしたグラスに注がれた水が差し出される。
「まあまあお水でも飲んで」
 言われるがままにグラスを手に取り、こくりと喉へと流し込む。
「冷たくておいしいでしょ」
「……フン」
 それ水道水なのよ、なのにおいしいのよね、と話すの横で、悟飯もにこにこしながらピッコロの様子を見守っている。
「だが、お前は以前、水道の水など飲めたものじゃないと言っていなかったか」
「ああ、それはさんの実家でのお話ですよ」
 彼女の実家がある海沿いの街は、ここ百何十年ほどで栄えてきた大きな港町だ。風光明媚で知られる場所でもあるが、それは街に迫るようにある山脈のせいだという。世界中どこであってもえてして、海と山の間隔が狭い場所は風光明媚だと言われる。だが、その山脈の地下水脈の恩恵を受けられるのは北の方に住む人間たちだけで、南の海近くに住む人間の家に引かれている水道は遠くの湖から伸びる川から運ばれてきているのだという。その水が、特に夏場は生ぬるく妙な匂いがする気がするのだと、あまりそのまま飲む気にはなれないのだと以前彼女が顔をしかめて言っていたのをピッコロは覚えていた。
「でもここのやつはほら、ここら辺の山の水を直接持ってきてるから、水道ひねっても冷たくておいしい水が出てくるのよねえ」
 ここに来て初めての夏の朝、顔を洗おうとひねった蛇口が汗をかいていた時の感動といったらない。
「本当に、ここの水はおいしいですよねえ」
「やだなあ。悟飯くんちは直接湧き水を汲んでくるんでしょ? そっちの方がおいしいでしょうに」
 そう言ってはしゃぐ二人の間でピッコロは無言で水を飲み干した。元よりピッコロは水の味にはあまりうるさくない方ではあったが、一度西の都で口にした水だけは、正直もう二度と飲みたくないと思っていた。人間はよく平気であんな水を飲めるものだと感心したほどだ。それ以来、人間が人工的に引いた水道の水は全てあのようなものなのだと思っていたが、なるほど場所によってここまで水道水の味が変わるのであれば、その考えも改めるべきだと――。
「おい、ちょっと待て」
「なあに?」
「何ですか?」
 揃って答えた二人の顔を交互にみやり、それでいてたとえ一瞬でも水に釣られてしまった自分を恥じて。
「お前たち、オレにただ水を飲ませるためだけにここに呼んだんじゃないだろうな?」
「そうでーす」
 二人の返事はやたら早かった。声まで重ねる仲良しぶりな二人に今更はめられたことに気付いたピッコロだったが時すでに遅し。左側からは悟飯が昔よくやった――今でもまったく直らない甘えの仕草でべったりと、右側からはが巨大なぬいぐるみにもたれるかのようにどっしりと寄りかかっているため身動き一つままならない。これではまるで二人の保護者のようではないか。手のかかるハーフサイヤンのちびっこどもがようやく大人しくなりだしたばかりだというのに、またしても保父へと逆戻りしてしまうのか。
 そんな危惧さえ抱いてしまったピッコロに対して、二人はピッコロの人より僅かに冷たい肌を楽しむかのようにぐりぐりと頭を押しつけつつ。
「でもねでもね。聞いてくださいよ、ピッコロさん」
「これにはれっきとした理由があるのよ」
「実はさん、昨日足を怪我してしまいましてね」
「今日、本当は裏山で悟飯くんとピッコロさん修行する予定だったでしょ。私も誘われてたけど、行けそうにないから悟飯くんにメールしたのね」
「でも、それも残念じゃないですか。そこでちょっと予定を変更して、ピッコロさんとお茶でも飲みながら楽しくお話しようかな、なんて思って」
「ここら辺でー目立つことなくのんびりできるのってーうちくらいしかないからー」
「ピッコロさんをーここへと呼んだんですー」
「……お前ら、しゃべるのはどちらか一人だけにしろ」
 えー?と抗議の声を上げた二人の間で身を捩り、ピッコロはソファへと深く腰を埋めた。どうやらここでしばらく過ごすことを決めたらしい。そもそも逃げ出そうとしても、口の達者な者が一人、腕っぷしの強い者が一人いて、二人同時に相手をしなければいけないとなると、さすがのピッコロもうんざりとするようだ。
「とりあえずお前たちの話はわかった。それで。お前のその足はどうした?――おおかた、余所見でもしていて階段から落ちたんだろうが」
「もう! そうじゃないのよー」
「実はですねえ」
「おっと、二人で話すのはよせ。耳元でピーチクパーチク騒がれるのはたまらんからな。こういった話は当事者から聞くのが一番早い」
 そうあごで促されて、は昨日の昼間あったことを話し出した。ちょうど昨日は授業が一限だけだったので、この予定にOKを出したらしい。
「私の友達でものすごく廃墟が好きな子がいるのね。もう廃墟って聞いただけでうずうずして写真撮りたくてたまらないんだって。家にもプロのカメラマンが出した写真集とかいっぱいあって、自分の撮った写真をアルバムにしてたりしてすごいんだけど。その子がよく行く廃墟があって――ほら、いつもの山のちょうど反対側くらいかなあ、山の上に洋館が建ってるの知ってる? ほら。あれよ、あれ」
 そう言ってはちょうど窓の外を指差した。ピッコロがぐるりと首を回してその方向を見ると、少し離れた山の上に白っぽい建物がぽつんと建っているのが確認できた。
「あれってもともと観光ホテルだったんだって。ここに学校が来るずっと前の話よ。ここって昔リゾート開発の予定があったらしいんだけど、その大元の会社が手を引いちゃったせいですぐにぽしゃっちゃったらしいのね。あのホテルはすでに営業を始めててちょこちょこ人が来てたんだけど、ここって本当に不便な場所じゃない? 計画がぽしゃっちゃった後でも営業していくなんて到底無理な話だったみたいで、すぐに廃業して建物だけが残ったってわけ。で、取り壊すにもお金かかるから誰もやらないし、あんな土地買う人もいないからそのままなのね。で、その荒れ放題な感じがいいって友達は入り浸っちゃってるのよ」
「それで、本題は何だ」
「うん、昨日一限が終わってからその子のエアカーで行ってね。実はあそこ、出るって噂なんだけど……」
「出るって何がだ。肉食獣でも住み着いているのか?」
「やだなあ、ピッコロさん。あんなとこで出るって言ったら一つしかないですよ」
「そうよう。ピッコロさんてばいきなりボケちゃって。なんでもね、観光ホテルだった時に自殺が何回もあったとか。あそこで死ななくても周りの山で死んだりして、あそこにはそういう人たちの幽霊が今でもうろうろしてるって噂よ。私、そういう話ってあんまり得意じゃないんだけど、まあ昼間ならきっと大丈夫かと思って行ったのね。でも、思ったより中が暗くて足元に落ちてた瓦礫に気付かなくて」
「足を引っかけて転んだというわけか」
 の右足首に巻かれた包帯と膝に貼られた絆創膏を見て、ピッコロはやれやれとため息をついた。いったい本題に入るまでどれほどかかるのかと思えば、本題はただ「瓦礫で転んだ」だけではないか。いったい何をどうやったらここまで長くなるのだろうか。
 だが、呆れ果てているピッコロを他所に悟飯との話はすでに『廃墟に出る幽霊』一色だ。
「僕が聞いたのは長い髪の女の人の幽霊ですね。何でも不倫相手とあそこで待ち合わせしていたのに、当日になって相手に別れ話されて、その晩首吊りしたって」
「私もそれ聞いたことあるんだけど他にもねえ、ここら辺で民宿やってた人が、あのホテルができたせいでまったくお金入らなくなって、ホテルのロビーで自分の頭撃ったとか。まあ、そんな新聞記事も残ってないし、周りの人も知らないっていうから都市伝説だろうけどね」
「そういう事件もありそうですしね。地元民と業者の軋轢とか」
「そうそう。他にもねえ――あ、そうだ。ピッコロさんは幽霊とか見たことあるの?」
「な、何?」
 急に話を振られて、大人しく水を飲んでいたピッコロは思わずむせかけたが、寸でのところで何とか食い止めた。
「ゆ、幽霊だと?」
「そうそう。ピッコロさん、普通の人と違う経験いっぱいしてそうだし!」
「む……」
 言われていることに間違いはない。だがそもそも、とピッコロは頭の中に入っている知識を総動員してまず『幽霊』というものの正体を探る。
(死んだ者の魂が現世にいつまでも留まっている、というものか)
 神の知識とはたいしたものだ、とこの時久しぶりにピッコロは思った。何かにつけて下らない知識ばかり詰め込みやがって、と思っていたが、なるほどこと世俗的な事柄となると、あの年老いた神に勝る者はほとんど皆無といってもいいかもしれない。
 だが、とここでまたピッコロは考え込んでしまった。『死んだ者』というのはそれこそ自分を含め大量に見てきた。しかし、その中にあの世にも行かず現世に留まり続けた魂があったかと聞かれると答えは否だ。ということはつまり。
「ピッコロさん?」
 悟飯かか。どちらともなしに問いかけたその時、ピッコロはしばし閉じていた目をゆっくりと開いて。
「ない、な」
「え?」
「幽霊とやらを見たことはない」
「なーんだ」
 その答えを聞いたとたん、はさも残念そうな声を上げた。そういう話は苦手だと言っている割には好奇心だけは旺盛なようである。だが、そこで悟飯が声を上げる。
「大丈夫ですよ。ピッコロさんも何人か見たことあるはずです」
「え? え? そうなの?」
「そうですよー。だいたい、ピッコロさんも界王さまのところで修行したでしょう。あれ自体が幽霊みたいなものですよ」
「何? そうとなれば」
「あの時一緒にいたヤムチャさんや天津飯さん、餃子さんもみーんな幽霊です。地獄にも天国にも行ってない人たちはいわば幽霊なんですよ」
「となると、一時の孫もそういうことになるな」
「そうですね。ブウと戦った時のべジータさんもそういうことになりますけど、僕たちは見てませんからね」
 そう考えてみると、自分たちの周りは幽霊だらけではないか。そう思って、ピッコロがふと視線を感じた方へと目を向けると、そこにはぽかんと口を開けたままのの顔があった。
「みんなすごい体験してるわねえ。いいなあ。私も幽霊見てみたいなあ」
「一般的にいう幽霊とはちょっと違うんですけどね」
 そんな話をしたせいか、それから後はもっぱら悟飯とピッコロの今までの戦いの話となった。もちろん、皆の頭の中から幽霊のことなどは綺麗さっぱり消えている。むしろ、自分の知らない世界の話を聞けることの方がにとっては興味を引かれるらしい。
 結局、その話は小さな携帯電話のバイブ音で突然終わることとなる。
「あ、すみません。もしもし……」
『悟飯ちゃん! 遅くなるんだったら遅くなるって電話してけれって言ってるだろが!』
 ピッコロを挟んで隣にいるにまではっきり聞こえるほどの声。ピッコロなどは思わず耳に指を突っ込んでいる。
「あ、あの……」
『もうさっきから悟空さも悟天ちゃんも腹空かせて飯まだか飯まだかってうるさいだよ!』
「す、すみません! 今から帰ります」
『じゃあ、もう少し待ってるべ。早く帰ってきてけろ!』
 その声を最後に電話は切れてしまった。まるで嵐のような電話である。
「話の途中ですみません。僕、そろそろ帰ります」
「ならオレも戻るか」
「うん。二人とも気をつけてね」
 順にベランダへと出た悟飯とピッコロに、ソファに座ったままは手を振る。
「遅くまでごめんね。お母さんに謝っといて」
「そんな。こちらこそずっとお邪魔してすみませんでした」
 丁寧に頭を下げて浮かび上がった悟飯に続いてピッコロもふわりと浮かび上がる。
「ピッコロさんもまた来てね」
「フン。機会があったらな」
「よーし。機会作りましょう、さん!」
「オッケー!」
「それじゃ!」
 にやにやと笑う二人をちらりと見て、ピッコロは軽く口の端を吊り上げると、さっと飛び立っていった。彼は東の方へ、そして悟飯は家のある南の方へ。
(慣れんことをしたせいか、少し体が重いな……)
 そんなことを考えながらピッコロは高度を上げながら神殿を目指す。悟飯はかなりスピードを出していったのだろうか、すでに姿は見えない。
 そして、そんな二人を手を振りながら見送ったはちらりと時計に目をやる。もう八時だ。
「なんか学校で無理しちゃったせいで疲れたな。適当にご飯食べてお風呂入って寝よう」
 一人暮らしを初めてから独り言が増えたなあ、と思いながらも、はよろよろと立ち上がると、キッチンへと向かう。確か冷蔵庫におととい買ったレトルトのパスタがあったはずだ。

|| THE END ||
→夏の終わりのその夜に

* あとがき *
そんなわけでお宅訪問。甘えでアホな悟飯が書きたかっただけです、はい。
『おたく』と打つと真っ先に『オタク』と変換する我がPCが切ない。