文字サイズ: 12px 14px 16px [夏の終わりのその夜に]-前編-

 誰かが頭を撫でているような気がする。とても優しくて、それでいて父や母とは違う感触。それが一定のリズムを保って髪の毛を撫で、肩に軽く触れる。しかし、ふとこれが夢ではないことに気付いて、は現実へと引き戻された。
 目を覚ましてそれでもまだぼんやりとしたまま視線を定めると、飛び込んできたのはなぜかテーブルの脚。そこでようやく合点がいった。ベッドでは寝ていないのだ。
 そういえば、頭を乾かしながらテレビをつけたら、ちょっと面白い番組がやっていたのだ。それを、ソファに寝転がって見ているうちに寝てしまったのだろう。せっかく風呂に入ったというのにまだ続く暑い夜のせいか、じっとりと汗をかいているような気がする。ああ、もう一度シャワーを浴びてから寝直そうかと思ったその時、ふいにあの優しい手のことを思い出した。そう、本当に幸せで穏やかな夢だったと思うと、知らず知らず顔が緩み、ふと首を動かして――。
「ピ、ピッコロさん!? 何でここに? 帰ったんじゃなかったの?」
 そこにあった姿に寝起きの薄い霧も一気に消えてしまった。慌てて起き上がり時計を見るとちょうど日付が変わってすぐだ。彼はすでに三時間も前に帰ったはずなのに、なぜ今ここにこうしているのか。いや、よく見てみると服装が違う。ということは、一度神殿に戻って着替えてから来たのか。普段の重厚なターバンとマント、そして胴着ではなく、まるでどこかの砂漠の民のようにゆったりとしたベストを素肌の上から羽織り、真っ白なズボンを履いているその姿は、普段の彼からは想像もつかないほど寛いでいるように見える。
 それでもまだ疑問は残る。そもそも鍵のかかった窓からどうやって入って来たのか。それともが鍵を閉め忘れていた? だが思い出してもそんなことはない。普段は適当でも、鍵に関しては一応一人暮らし、女性ということもあって用心はしている。部屋に入ったらまずすることはドアの鍵を二つ閉めてチェーンを下ろすこと。それは部屋の中にある窓全てに対しても同じで、鍵をかけた後はきちんとカーテンも閉めているのだ。と、そこでふとピッコロの後ろにある窓を見る。だが、カーテンはきちんと閉まっていた。まあ、それも彼がきちんと閉めたのかもしれないが。
「あ、あのピッコロさん……?」
 普段なら「フン」とか「何だ」とぶっきらぼうな声で返してくるのに、今の彼はただ穏やかに微笑んでいるだけだ。――そう、『微笑んで』いるのだ。それがに妙な恐怖心を植えつける。何せピッコロの笑顔を見たことなんて一度もない。悟飯に聞いても「そういえば見たことないですね」と言うのだから、本当に笑わないんだろう。そういや馬鹿笑い(しかもあくまで人を見下したり虚勢を張っている時の、だ)は何度かあるそうだが、そんなもの、今の彼に比べれば、微笑ましくて思わず「はいはい」と言ってしまいそうなほどかわいいものだ。
(お願い……。いつもの顔に戻ってよ。怖いよう……)
 半分嘆願にも近い気持ちでピッコロに目を合わせると、ふと息の漏れる音が聞こえた。そして。
「驚かせてしまってすまない。地球人の体毛というものがどういった感触なのか気になってしまってつい」
 そう言ってピッコロは――ピッコロでは、ない。明らかに声が違う。確かにピッコロは無意識のうちに優しい声を出している時がある。気付かぬは本人と声をかけられている相手だけだろうが、まだ知り合って半年にしかならないにだってそれはわかる。
 以前悟飯が「ピッコロさんは警戒心の強いネコみたいなんだ」とこっそり教えてくれたことがある。どんなに親しくしてもどこかでよそよそしい、ある程度の侵入は許しても決して心の深淵までは覗かせない。そう言って悟飯はせっかく世界に一人だけの師匠なのに、と困ったような笑顔を浮かべた。その時は口に出さなかったが、それに対しては異議を唱えられる。いつもきりっとしている彼がその表情を緩めるのは世界にただ一人の弟子にだけなのに、と。
 しかし、が今まで見てきたどのピッコロにも目の前の男は当てはまらなかった。余りにも穏やかすぎる表情、そして落ち着いた柔らかな声。そのどれを取っても、彼女の知っているナメック星人には当てはまらない。それどころか、まったく正反対の存在にすら思えてくるのだ。
「あの……」
「その……」
 が声を発すると同時に彼もまた口を開いた。思わず二人して言葉を止めて押し黙る。だが、それを破ったのはの方だ。
「あの、先にお話どうぞ」
「あ、ああ。すまない。その……私自身もどうしてここにいるのかわからないのだ」
 その言葉が決定的証拠だった。ピッコロは例えどう転んでも『私』なんて丁寧な言葉を使う者ではない。
「で、でも。わからないってどういうこと? あの、どこかから入ってきたとか」
「いや、気が付いたらここにいた」
 そんなこと言われても。気が付いたらなんてどんな言い訳なんだ、との頭の中で声がする。そもそもそれも嘘かもしれない。そうだ。もしかしたら泥棒に入ってきて、とそこでふとその考えが止まった。
 ピッコロと間違えたということは彼もまたナメック星人なのかもしれない。だが、それはそれで問題が出てくる。悟飯やピッコロの話によると、ナメック星はひどく遠くの星である上、宇宙船を作る技術もとうの昔に捨てて、今はただアジッサという植物を育て、穏やかに暮らしているという。そして、地球にいるナメック星人はピッコロと神であるデンデだけだと言う。ということは、この男はもしかして、ピッコロもデンデも知らない第三のナメック星人なのか。
「あの、あなたはいったい誰なんですか?」
 一応はそう聞いておいた方がいいだろう。そして、明日悟飯に連絡して、そうしたらおそらくピッコロとデンデの耳にも入るだろう。そうなれば、彼らがきっと目の前の男の正体をわからせてくれるはず――。だが、そんな必要はなかった。
「私の名はネイル。ピッコロと同化したナメック星人だ」
 その名前一つで、の疑問はほとんど解消されてしまった。そうか。彼がネイルなのか。とたん、の顔に笑みが戻る。
 彼が口にした名前はピッコロから聞かされたことがあった。そして誰よりも彼の名前を言い、どんなに素晴らしい人物だったかを聞かせてくれたのは他でもない、ナメック星からやってきたデンデだ。
「あなたがネイルさんなのねー。で、何でここにいるの?」
 聞いてからはあ、と声を上げた。それはさっき彼が答えてくれたはずだ。「わからない」と。ならばこれは愚問だとばかりに自分が座っているソファの隣を叩く。
「ささ、座って座って。とりあえず、お水でも飲む?」
「あ、ああ」
「お水ねえ、ナメック星のとはちょっと違うかもしれないけど、そんなにまずいもんではないと思うのね」
 言いながらは立ち上がろうとした――が、腕をぐっと掴まれ途中終了する羽目となった。
「え? どうかした?」
「お前は足を痛めているのだろう? 無理をしてはいかん」
「でも、喉渇いてない?」
「それは……しかし、けが人に無理をさせるわけにはいかんからな」
 ああ、とはため息をついた。
(こんなに素敵な心配り、ピッコロさんには絶対にできないわ。私、デンデくんと一緒にネイルさんファンクラブ作っちゃおうかしら)
 そんなことまで思ってしまうほど、には彼がひどく新鮮に思えてならなかった。地球人でもここまでの心配りができるような人間は、が知っている限りでは数人しかいない。
「いいのよいいのよ。ネイルさんはお客様なんだから。どーんと構えてもてなされてやって!」
 そう言っては彼をソファへと押し付けるとキッチンへと向かう。悟飯とピッコロが帰った後片付けた食器には一切手を伸ばさず、小さな食器棚から来客用の切子硝子のピッチャーとグラスを取り出し、そこに冷蔵庫から取り出した冷たいミネラルウォーターを注ぐ。この家における『特別待遇』だ。
「さ、どうぞ」
 コト、と音を立てて置かれたグラスを、ネイルは初めて見たかのようにまじまじと観察した。それからゆっくり手を伸ばして、やがてその指がグラスに絡まると同時におそるおそると持ち上げ口に少し含む。こくり、と小さな音がして水が彼の喉を通り飲み込まれていく。その様子を一部始終しげしげと見つめていたは、どこか妙な感覚を覚えていた。
 何かがおかしい。こう、ピッコロと姿形もそっくりであるのに、何か体の模様が違うような。ピッコロの体はもちろん、緑とピンクというなかなか奇抜な色で構成されているのだが、彼の場合、緑色は薄く、その中に白いラインや赤いハートマークのようなものが見えている。
(ネイルさんってものすごく模様がかわいいん――だ?)
 その時、はようやくその『妙な感覚』とやらに気付いた。例えばその白のラインは彼を超えた向こうにあるベッドのラインとシンクロしている。赤いハートもそうだ。ベッドの枕元に置いたぬいぐるみが抱えているハートと完全に重なる。そうだと言えば、その周りの茶色もそうだ。そのアウトラインは置かれたハートを抱えているサルのぬいぐるみとぴったり合う。
「ネ、ネイルさん」
「?」
「あの、その、ネイルさん」
「どうかしたか?」
 ただ彼の名前を呼ぶだけのにネイルが訝しげな視線を送る。だがはそれから先の言葉が出てこない。ただぱくぱくと口だけを動かし、それと同時に今しがた自分が気付いたことを早く言わなければという考えと、そんなものは信じられないという思いが激しくぶつかっている。
「おい、どうした?」
 そう言ってネイルは、先ほど手渡されたピッチャーからグラスに水を入れ、の目の前へと差し出す。どちらが主人でどちらが客人なのか。突き出されたグラスを半ば奪い取るように受け取ると、はあっと大きく息を吸い込んで、は瞬く間にグラスの中を空にする。そしてまた、はあっと一呼吸。
「どうだ。落ち着いたか?」
「うん。……ところでネイルさん。あの」
「急がなくていい。落ち着いてゆっくり話せ」
 はい、と小さく返事をしたの背中を優しくとんとんと叩く手がある。それはもちろん、隣に座るネイルから伸びていて、確かに背中に触れているというのに、視線を寄越した先の彼はその向こう側にある景色をそのまま映しこんでいる。だが、言わないわけにはいかない。いや、一応言っておいた方がいいだろう。驚かれるかもしれないが、まず事実を伝えた方が今後のためにも――。
「あの。その、ネイルさんの体ね。えーっと……す、透けて見えるんです!」
 今までの人生、たとえ愛の告白であろうともここまで気力を使ったことなんてなかった。同じ「す」から始まる言葉なのに、なぜこの事実を伝えるにはこんなにも気力がいるのだろう。そんなことを言い終わってからぼんやり考えただったが、紡がれたネイルの言葉に思わず「は?」と間抜けな声を出さずにはいられなかった。
「その、ようだな」
 そのようだ、と言ったのだ、この男は。つまりそれは、との頭はフル回転し、ある一つの結論に辿り着く。
「つまり、透けてることはすでにわかってたってこと?」
「そういうことになるな。むしろ、どんどん実体化していると言った方が早い」
「実体化してる?」
「言っただろう。私は気付いたらこの部屋にいたと。それにいつ気付いたかといえばそうだな、ピッコロがこの部屋を後にしてすぐかな。まるでお前は誰もいない空間に向かって寝るだのと口走っただろう。だから、私は思わず返事をしてしまったんだ。その時だ。私が確かに私として存在していることに気付いたのは」
「えと、それはつまり……」
「ピッコロと同化して以降、私には一切の記憶がないはずなんだ。いや、あるはずがない。私は常にピッコロを構成する一部として存在してきただけなのだから。お前たちもそうだろう? 口や目や耳がそれぞれの意識をはっきりと持ってはいないだろう? それと同じことだ。
 それだと言うのに、今の私には、ピッコロと同化してからピッコロが経験してきた全ての事柄が記憶として頭に入っている。人間の作った機械と戦ったことも、地球に来たカタッツというナメック星人の子供と同化したことも、魔術によって生み出された魔物と戦ったことも。それから戦いが終わってからの日々のこと、孫悟飯が大学に入学した日のこと。もちろん、お前と出会った時のことも『覚えて』いる。だが、それは私が経験してきたことではない。ピッコロが、経験してきたことだ」
「つまり記憶までもらってきちゃってるってことね」
「ただ、私にはピッコロと同化する前のピッコロの記憶はないんだ。それより前の記憶をいくら思い出してもナメック星のことしか思いだせん。ただ、それ以降の記憶はなぜか鮮明にある。――そうだ。お前の名前はと言うのだろう?」
 その言葉に一言頷いてからはた、とは考えた。そういえば、自身は悟飯やピッコロ、デンデから話は聞いてネイルのことは知っていた。だから、ここで目の前の男がネイルだとわかった時点でまるで知り合いかのような態度を取っていたはずだ。もちろん、自己紹介など一言たりともしていない。
「お前は私に名など告げた記憶はないだろう。だが、私は知っている。ピッコロがお前の名前を知っているからだ」
「そうか。じゃあ、ネイルさんはピッコロさんと分離して、元の一人のナメック星人に戻りつつあるってこと? でもそれじゃ……」
「今、ピッコロはどういう状況でいるか、ということだな。何も変わりないといいが」
「でもネイルさんが抜けたってことは、それだけピッコロさんにも何かあるのかも。
 あれ? そういや、どうしてネイルさんは自分が実体化してきてるって気付いたの?」
 それが何より疑問だ。が指摘するまでになぜ彼は自分がそんな状況にあると理解できたのか。もしかして鏡でも見たのだろうか、と玄関横に置かれた姿見を思い出してみたが、そもそも半透明の状態で鏡に映るのかという新たな疑問が沸き起こってくる。
「ちょうど私が自分の存在に気付いた時――」彼は少々いたずらっぽそうな顔をして。「私は『寝る』と言ったお前に『おやすみ』と返したんだよ。それだというのにお前は何も聞こえなかったといった様子で、あの白い箱、冷蔵庫とかいうやつを漁りだした。次に、何か音の出る箱から――ああ、一瞬耳にキンと来る甲高い音だったな――湯気の立つ容器を持ってこちらへと戻ってきた。食事を摂るのだということはすぐにわかったよ。地球人はあのようなものを食べて生きているのだとここに――」そう言って彼は自分の頭をとんとんと叩いた。「記憶されているからな。だから私は尋ねたんだ。それを口にすればどのような感触がするのだ、と。私たちには昔の名残で歯は残っているが、物を『食べた』こともなければ『満腹』という感覚もわからないからな。純粋に興味で聞いてみたんだが、今度もまたお前は何も答えてくれなかった。思わず、何か気分を害することでもしただろうかと真剣に悩んでしまったよ」
 そう言って彼はハハッと楽しそうに笑った。だが、の心中は穏やかではない。それだけきっちり見られていたということはつまり、風呂から上がって下着一枚で部屋をうろついていたことも、部屋に入ってきた蚊に我慢がならず、奇声を上げながら追い回したことも、見ていた番組の内容に鼻と口から麦茶を噴出して大笑いしたことも、さらに転げ回った挙句、テーブルの脚に怪我をしている場所をぶつけて絶叫したことも、全て(本人は意識していないにしろ)密かに見られていたということである。
「ネイルさん、お願いが」
「何だ?」
「今夜見たことは一切忘れて。忘れられないって言うんならせめて絶対に誰にも言わないと約束して」
「? 構わんが、どうかしたのか?」
「……私の社会的イメージを壊さないためです」
 言うなり、は小指を立てて彼の目の前に突き出した。もちろん、それが何を意味するのかはネイルもわかっている。
「わかった。誰にも言わないし、なるべくこのことは思い出さないようにしよう」
 そう言って絡められたネイルの指はピッコロと同じようにひんやりとしたものだったが、彼とはまったく違う存在なのだということをその穏やかな顔が教えてくれた。
「地球人は温かいな」
 ふいにネイルがぽつりと呟いた。確かに彼の体温からすれば、人間はたとえ平熱であっても熱いと感じるほどだろう。もそれほど体温が高いとはいえない方だが、それでも彼に比べたら格段に高い体温を持っていることになる。
「まさかこんな状況になって地球人に触れる日が来るとは思わなかった」
「でもナメック星で悟飯くんやクリリンって人と会ったんでしょう?」
「だが直接触れ合ったわけではない。事実、あの時は初めて見た地球人と我々の姿の違いに驚いてばかりいたからな。今もそうだ。地球人はこんなにも高い体温を持っているのだと驚いている。――だが」
 そこで一旦言葉を切って、ネイルはふと笑顔を浮かべた。何かを慈しむような、そんな笑顔だ。
「だがデンデも、そしてピッコロもこんなに温かな者たちに囲まれているのなら安心だな。特にピッコロは――あいつは心の中にまだ冷たい氷を抱えているようだが、この熱に触れているのなら、それが溶け切ってしまう日もそう遠くはないだろう」
 本当に優しい人なのだ、とは思った。誰かを慈しんで思いやって生きてきた人なのだと。ナメック星人には恋愛感情はないと聞いたことがあるが、人間に勝るとも劣らない深い愛情を持っているのだと、ピッコロを、デンデを見てきて、そして何より今目の前にいるネイルを見てそんな確信を持つ。
 触れている冷たい肌がなぜかじんわりと温かく感じた気がした。

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