文字サイズ: 12px 14px 16px [April〜物体Xは新緑と共に〜]-01-

「君って僕がいなくても大丈夫そうだしね」
 目の前のインテリ男が口にしたそんな言葉の意味を完全に理解するのには十数秒かかったかもしれない。

 生まれて初めて付き合った人じゃないけど、そんなことを言われたのは初めてだった。
 だいたい何かにつけて『俺について来い』なんて態度を示してたのはあっちの方じゃない。それをたまたま「そんなこと思わないわ」って一言返しただけではいさようならってわけ? ふざけるのも大概にして欲しいわ。結局は、自分のわがままをはいはいって聞いてくれる彼女が欲しかっただけじゃないのよ。
 そんなわけで私はもんのすごい機嫌が悪かった。違うのよ。未練があるわけじゃない。あんな男に未練があってたまるもんですか。むしろ、付き合ってきた二ヶ月分の慰謝料が欲しいくらいだわ。
「そうよ。あんな男に引っかかった自分が馬鹿だった。うん、そうよね」
 そう自分に言い聞かせて歩いているうちにどうしたものか、ふと見渡せば辺りを取り囲む木、木、木。その風景に自分でもちょっとびっくりしたけど、振り返った先でその答えを見つけた。
「あの山だったんだ……」
 眼下に広がったのは二年前の春その門をくぐって以来、通い続けているキャンパスだった。初めてここに来た時はなんて広い場所なんだろうって思ったけど、上から見てもその感想は変わらない。ぽつぽつとまばらに、それでいて視界のかなり奥まで広がる色とりどりの建物を見つめて改めて思う。
 あの白い建物は法学部、そこの黄色いのが理学部であっち側のピンク色のやつが私が通っている文化学部。その他にも経済学部、薬学部、文学部、芸術学部なんてさまざまな学部が、本部を中心に放射状に散らばっている。今はちょうど三限の始まりくらいね。きっとそれぞれの校舎から伸びる道を皆が行き来してるんだろうけど、さすがにそこまでは私の視力では確認できない。
 そんな馬鹿でかいキャンパスの裏側にあるのがこの山。ここら辺はもともと山だったって聞いてたけど、十数年前にこの大学が移ってきた時に山を一つ切り崩したんだってことは誰かから聞いたことがある。私が今いるここは、さしずめ隣の山ってやつかしら。授業の移動のたびに目にはしてきたけれど、こうやって訪れたことなんて一度だってなかったわ。
「でもたまにはこんなこともいいかもね」
 だって私の家があるのはもっと海の方だもの。山登りなんて小学校の遠足以来やった記憶がない。
 ちょっと気持ちを静めて、木々の隙間から見える空を見上げるとチチチ……と鳥のさえずる声が耳に届く。すっと吸い込む空気も都会に比べて断然おいしい。何か、これだけでもいいことあったって思えてくる。
 そう考えたらやたらと気持ちが浮いてきて、私は鼻歌まじりに舗装もされていないでこぼこ道を登り始めた。夕暮れまでにはまだたっぷり時間はある。昼休みの中頃に飛び出してここまで来たんだもの。日が暮れるまでには十分下へと戻れるはず。ならもう少し進んでみようかな、なんてね。

* * *

 それからどれくらい歩いたんだろう。ずっと木に囲まれていた道筋がさっと開けて、私はそこへと向かって足を速めた。何か柔らかな鼻をくすぐる匂い。それが気になっていつの間にか走っていた私は目の前に広がった光景にはっと息を呑んだ。
 これは何の花なんだろう。小さな黄色の花がこれでもかっていうくらい咲き乱れていて、ものすごく平凡な言い方なんだろうけど『じゅうたんを広げたみたいに』ていうのがしっくりくる。それがまるで「ここまでご苦労様」って出迎えてくれてるみたいで、私は一度止めた足にもう一度力を入れて駆け出し――。
「――――ッ!」
 それはまるでスローモーションだった。近付いてくる緑の草、そして確実に自分の体が傾く感じ。それから何か、柔らかいものを思いっきり踏んづけた感じ。……なんて言っても次の瞬間、私は情けない声を上げて地面とのガチンコ勝負に挑んでしまったわけだけど。
 膝の辺りがじんじんする。顔も何だかじんじんする。もうあちこちが痛くて、でもその中で私は考えた。もちろん、突っ伏したままよ。
 私の考えが集中したのはそう、あの踏ん付けた柔らかいもの。ううん。きっと私は石に躓いただけなのよ、とも考えてみた。でもあの時、はいてたこのパンプスに感じたのは石なんて固いものじゃなくて、もっと柔らかい――。
 そのとたん、自分の考えたことにぞわっと背筋が寒くなった。馬鹿ね。そんなことあるわけないじゃない。あるわけない、あるわけない、あるわけないッ!
 でももし仮にそうだとしたら? だってこんな山の中、その可能性がないわけじゃない。この周りに住んでいるのは私たち学生と、それから地域の人がほんの少しだけ。この山にだって別に足しげく通っている人なんていないかもしれないじゃない。それはイコール発見が遅れるということで、それはつまり、やっぱり私の踏んじゃったものは――。だめ。落ち着くのよ、。とりあえず確認をして、もしそうだとしたら警察に電話よ。それから猛ダッシュでここから離れて、後はパトカーの到着を待つのみ。
 そういやこういうのって新聞に載るんだよね。取材ってやっぱり今日か明日くらいに来るのかしら? 困ったなー。今日は何も予定ないけど、明日は一限から四限までみっちり授業なのよね。なるべくなら今日帰ってから化粧落とすまでの時間か、明日化粧が崩れない午前中のうちに取材に来てもらいたいんだけど。取材の申し込みがあったら時間指定してみようかしら。
「おい」
 やっぱりテレビでの取材では顔にモザイクがかかるのかな。それでも、やっぱり首から下は確実に映るよね。どうしよう。こないだ買ったピンクのボレロでかわいく決めたらいいの。それともシンプルな濃紺のワンピースで大人っぽく決めた方がいいかしら。
「おい!」
 でも両方合わせてみるのもいいかもしれないよね。ちょっと大人っぽくそれでいてキュート!みたいな。あー。それいいわ。それいい。パンプスとバッグの色はボレロよりちょっと薄めのピンクで攻めて。
「おい、聞いてるのか!」
 取材に来る人は若い男の人がいいな。こう、大学出たてで、いかにも「新人です!」って感じの人が。それでもしかしたらこれがきっかけで恋に落ちちゃうのかも。それならなおさら手抜きはできないわ!
 もう「あなたに一目惚れしました」なんて言われちゃったらどうしたらいいの! 新聞記者とかアナウンサーって知的でそれでいてちょっと茶目っ気があってってイメージなのよね。うん。これまで付き合ってきたのはせいぜい大学生だし、そういう一歩大人の世界踏み込んでますって人もいいかもしれな――。
「おい、貴様!」
 ……あら。この状況は何なのかしら。何で私、地面に手をついてるの。何で腕伸ばしているの。
「い、いたた……」
 そう言ったはずなのに、呻くような声しか出てこない。それより、この首を引っ張られるような痛みと頭を掴まれてるような感触は。
「フン。どうやら無事だったようだな」
 突然頭の上からそんな低い声が聞こえて、それまでの感触がふっと消えた。ってこれは!
 状況を察するやいなや、私は腕にこれでもかってくらい力を入れた。おかげで、私は本日二度目の衝撃は避けられたわけだけど、いったい全体何がどうなっているのかさっぱりわからない。とにかく、とまだ少し痛む首を横に曲げたら、茶色いものが目に入った。それから緑、紫、赤と来てまた紫。それから、さっきからちらちら視界に飛び込んでくる白と緑。そのまま少しずつ視線を上へと上げていって目に入ったのは人の――顔?
 そこでようやく私はゆっくり体を起こした。動かした膝はまだ痛かったけど、曲げれるだけの力はあるし、そのまま座り込んでもう一度目の前の人を見る。
「あの……」何とはなしにそう声を出して。
「あの、どうかされましたか……?」
 そんな自分でも間抜けな問いかけに、明らかにその人は気分を害した顔をして、次に見てわかるくらいすうっと空気を吸い込んで。
「貴様がオレを踏んづけたんだろうが!」
 もうこれ以上はないってくらい大きな怒鳴り声でお返事をしてくださった。だから私も返したのよ。
「違います。私が踏んづけたのは死体です」って。
 次の瞬間、私は生まれて初めて人に蹴られて宙を舞うという、普通に生きてただけじゃめったにお目にかかれない体験をする羽目になった。

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