文字サイズ: 12px 14px 16px [August〜海と馬鹿ども〜]-01-

「海ですよ、海行きましょう!」
 受話器から聞こえてきた悟飯くんの声は興奮気味で、いったいどうしてそんな話になってるのか、私は目の前の海を眺めながらふと考えた。
 夏休みも中盤、八月を半分ほど過ぎた頃、私はようやく実家に帰ってきた。バイトも全部休んで気楽な実家ライフ。ああ、遊びから帰ってきたら洗濯物がきちんと棚にしまわれているこの感動。何もしなくても三食きちんと用意されるこの環境。これだから実家は離れられないのよねえ。ありがとうお父さん、お母さん。
 そして、そんな私の素敵な実家は海沿いにあって。これまた好都合なことに、その目の前の海は海水浴場になっていて。
「じゃあ、うちに遊びにおいでよ。親には言っとくから」
「いや、そうじゃなくて……」
 何? うちのご飯が食べられないって言うの。言っとくけど、うちのお母さんのカレーは世界一なんだから。
「何かあるの?」
「あのですね、前に行った無人島あったでしょう」
 無人島。その単語に私は思わず反応した。ああ、あの無人島。
「あそこに行ってですね、修行でもしようかと」
 来たね、修行。
「この一ヶ月さんを見て気付いたんですがね、どうもさんは体力がないんじゃないかと思うんです。そりゃ僕に比べたら、そこら辺の人は皆体力がないってことになるんですけど、その中でもさんはかなり体力がない部類に入るんですよ。そもそも、さんあまり家から出ないでしょう? 山に登る時もどんどん歩みが遅くなるし息も上がるし。そこでですね――」
「ちょっと待った。まさか無人島でサバイバルとか言うんじゃないでしょうね」
「そのまさかです。大丈夫、今回はちゃんと僕もついてますから、安心してください」
 いやいや、まったくもって安心できない。
「だって私、そんなアウトドアな生活したのって中学校の臨海学校が最後なのよ? それからもう五年以上経ってて、しかも元々そんなことなんてほとんどしたことないのに、いきなりできるわけないじゃない」
「大丈夫ですってば。ほら、僕も四歳の時に荒野に置き去りにされたけど、ちゃんとやっていけたじゃないですか」
 あの師にしてこの弟子ありとはまさにこのことね。あんな超人じみた人生秘話を一般人の私にまで適用しないで。何だってかよわい一般人の私が、隠れた才能を見込まれて最後の切り札として修行つけられたお方と同等に扱われなきゃいけないの。
「とにかく、完全なサバイバルなんて無理だからね。だいたい、そこってお風呂あるの?」
「サバイバルにお風呂なんてものはいりません」
 うそーっ。ちょっとやめて。悟飯くんてばフケツよ、フケツ。この夏場に一日一回お風呂入れないなんて、サバイバルするより前に不潔で死んじゃう。
「――と言いたいとこなんですけど」
 えっ? なになに?
「あの島、火山島なんですけどね、森のあちこちにあったかいお湯が湧き出てるんです」
「えっ? それってもしかして……」
 もしかして、天然温泉ってやつ? やったー!
「わかった。行くわ、行く。私、もう一回あの島行っちゃう」
「よし、これで決まりですね。あ、別にピッコロさんみたいに二十四時間臨戦態勢なわけじゃありませんから、水着とか持ってきてもいいですよ」
 遊びたいでしょ、と聞かれて受話器のこちらで頷く。だってねえ、温泉あって海でも遊べてなんて、それって修行じゃなくてちょっと自然に囲まれたとこへの小旅行ってやつじゃない。あんな貧乏生活じゃ旅行なんて無理って思ってたけど、これはまたいい夏休みの思い出ができそうだわ。
 そんなわけで浮かれたまま当日はやってきた。先に場所を教えておいたのがよかったのか、悟飯くんは迷わず駅までやってきて――と言っても電車でやってきたわけではなく、飛んできて駅の付近に着陸したってことね。そういや前に悟飯くんちに遊びに行った時、電車なんて影も形も見えなかったもんね。確か電車の駅まで80kmとか。車で一時間以上かかるじゃないの。それを「最寄り駅は」と言った悟飯くんに最寄り駅の何たるかを説明するだけで十分はかかったわ。
さんってすごい都会に住んでるんですね」
 確かにここらじゃ栄えてる方かもね。でも電車で十五分行ったとこに、もっと大きい、言ってしまえばこの地域で一番でかい街があるのよ。そこに比べたらここなんて山あるわ海あるわ、たぬきやいのししだって出ちゃうんだから。ウリ坊とかけっこうかわいいのよ。
「それで、さんのおうちはここから何十キロあるんです?」
「甘いわね、悟飯くん。一キロよ」
「いっ、一キロ?」
 えっ。ここはそんなに驚くとこなの? 私はむしろ「何十キロ」というその単語に驚愕なんだけど。確かに悟飯くんの常識からしたら駅は何十キロ先でOKなんだけど、何だか住む世界が違うというか。
「自転車でのんびり行って五分ちょっとかなあ。高校ん時なんて電車通学だったから毎朝ここ使ってて。その頃は家から五分で駅の改札抜けてホームにいたわね」
 我ながらすごい時代もあったもんね。今じゃ無理。そんなことを言おうとしたんだけど、私は悟飯くんの言葉に耳を疑うことになる。
さん、自転車乗れるんですかあ?」
 ……ちょっと待って。何その意外ですと言わんばかりの顔は。私が自転車乗れたら何なのよ。もう十五年以上乗り回してるわよ。悪いけど、自転車乗れるようになったのは早かったわよ。四歳の時にはすでに補助輪外してたんだから。
「何だ。さんって運動神経はいいんじゃないですか」
 え? 自転車ってたいていの人は乗れるもんじゃないの?
「だって僕、自転車乗ったことありませんもん」
「ええーっ。冗談でしょ」
「冗談じゃないです。本当に乗ったことないんです。あ、子供の時に後ろに乗ったことならありますけど」
 嘘。初めて出会った。同年代で自転車乗れない人。あんだけばんばん動き回ってて空も飛べて、師匠とやり合って。そんな悟飯くんが自転車ごときが『乗れない』?
「ちょっと、悟飯くん。これは修行が必要よ」
「しゅ、修行ですか」
「そう。自転車乗る修行よ。あんだけ動けるのに自転車乗れないってユユシキジタイってやつよ!」
 私は悟飯くんを置いてずんずん歩き始めた。もちろん向かってるのは私んち。いいの、悟飯くんはきっとついてくるから。
「ちょっと、待ってください」
 ほらね。
「どこ行くんです?」
「私んち」
さんち……って僕、何も手土産持ってないんですけど」
 そこが問題なんだ。いいのよ、うちは。だって手土産あっても今から出かけるんだから、私が食べられないじゃない。お父さんとお母さんだけがおいしいもの食べて私だけ食べれないなんて仲間外れで悔しいんだから!
「あらやだ。もう帰ってきたの」
 歩いて十分。家に到着した私を出迎えてくれたのは、ついさっき送り出してくれたばかりのお母さん。だけど、私の後ろから悟飯くんがおそるおそる顔を出したとたん、声がよそ行きに。
「まあまあ、うちのがいつもお世話になってて」
「い、いえそんな……」
「悟飯くんってアレなんでしょ、ものすごく頭の出来がよろしいんですってね。うちのとは大違い! もうね、うちの子、本当に馬鹿でしょう。何やるにしてもとろくさいし、頭の回転も遅いし、どこか鈍いし……いろいろご迷惑おかけしてないかって、それがもう心配で。オホホホ」
 怒涛のおばちゃんパワーに悟飯くんはたじたじ。出された麦茶に手もつけずきっちりかしこまっちゃって、見てるこっちは思わず笑いがこみ上げてくるのを必死にこらえてるってわけ。それにしてもお母さんてば、よくここまで自分の娘をばんばんけなせるもんね。しかも「オホホホ」って。いつもはテレビ見て「ウッフッハッハー」とかわけわかんない笑い声出してるくせに。ああ、何だか急激に恥ずかしくなってきた。もう逃げだしてしまいたい。自分の家なのに。
「お、お母さん。それより私の自転車どこ?」
「あんたの自転車? 車庫に入ってるわよ」
 よ、よかったー。戻ってきてから一度も乗ってないから、まさか捨てられたとか心配したじゃない。
「ほら、車庫にあるんだって。取りにいこ」
 玄関に荷物を放り出したまま、悟飯くんの手を引っ張ってようやく脱出。家の勝手口から続く車庫に入ると、コンクリートのひんやりした空気の中に、私のかわいい真っ赤な自転車がぽつんと置いてあった。
 おお、よしよし。なかなか乗ってあげられなくてごめんね。これも離れ離れのさだめ。
「さ、近所の空き地までレッツゴーよ!」
 ペダルをぐんと踏んで出発! 悟飯くんはあっという間に追いついて私に合わせて走ってる。
「本当に乗れるんですねえ」
「あのねえ、こんなんで嘘ついてどうすんの」
「でもすごいですよ。ちゃんと普通にこいでるじゃないですか」
 そういう悟飯くんは自転車と同じスピードで走って息が切れてない。そっちの方が万倍すごいことだと思うんだけど。うーん。三十分あれば完全に乗りこなせそう。
 そんなことを考えながら空き地について十分。目の前でほいほい自転車を乗りこなす悟飯くんの姿に、私は驚きを隠せない。ちょっと。私の三十分って見積もりは何だったの。
「やってみると意外と簡単なもんですねー」
 だから、乗れないってのが不思議だったんだってば。
 空き地についた悟飯くんに、力加減やこぎ方を簡単にレクチャーして。そりゃ最初の一、二回はふらふらと危なっかしい軌道で私が後ろから支えて、ようやくこげるようになったと思ったら、ブレーキかけられなくてフェンスに激突したりもしたけど、こんなにあっさりと乗れるんなら自分で練習すりゃいいじゃない、なんで今まで練習してこなかったの、と突っ込みたい気持ちで満々なの、今は。
「空を飛ぶのとはまた違う爽快感があっていいですねー」
 そんな、自転車協会のキャッチフレーズみたいな感想を述べつつ、広場をくるくる回ってた悟飯くんは、どうやら外の世界に興味が湧いたらしく、「出てみてもいいですか」なんて聞いてくる。そしたら仕方がないじゃない。後輪のネジに足をかけて、私を乗せたまま悟飯くんは広いご町内へ。あのう、どういうこぎ方してらっしゃるのか、肩の筋肉がもりもり動くのが手からダイレクトに伝ってくるんだけど。
「ここ、まっすぐ行ったらどうなってるんです?」
「そこから先は隣の町ー」
「そういや、さっきの駅ってどうやって行くんですか?」
「そこを右に曲がってー、それから突き当たりを左」
 海沿いの道をぐんぐん進んで、そしたらさっき見たばかりの駅の看板が見えてきた。
「確かにこれなら近くていいですね」
 そりゃ悟飯くんちの『最寄り駅』に比べたらね。うーんと近くて、一般人の私でも歩いていける距離だからね。
 ここ数年の間に駅前の風景はさらに変化して、大きなショッピングセンターなんかが立ち並ぶこととなった。駅舎自体は変わらないんだけど、周りのせいで余計に栄えてる風に見えちゃうのか、悟飯くんはしきりにきょろきょろと辺りを見渡しては「へえ」とか「うわあ」とか感嘆の声を上げて――んっ?
「あの、大丈夫でしたかっ?」
 一瞬ぐらりと車体が揺れた気がして。余所見していた悟飯くんはハンドルを切りそこね、急ブレーキをかけた。もちろん、慣性の法則に従って、私は悟飯くんの背中に突っ込むような形で停止、片足は地面の上へ。
「あのっ、すみません。ぼーっとしてたら電柱が」
「もう。安全運転でお願いね」
「はいっ」
 気合を入れなおし、悟飯くんは再びペダルをこぎ出した。駅前を通過して再び海岸線へ。昼を少し回ったこの時間の海は、太陽を反射してそれはもう目も開けられないくらいキラキラとしてる。沖にどこかの大きなタンカーが見えて、その手前にウインドサーフィンを楽しむ人たちがいて。砂浜ではもちろん、この季節よろしく、肌を焼く人たちや、波打ち際で遊びまわってる高校生の集団とか。
 海特有のむっと潮の香りのする風の中を、自転車はどんどん進んでいく。有難いことに、今日はそんなに気温も高くなくて、どちらかといえば夏だけど爽やかなサイクリング日和って感じで自転車に乗っていても本当に気持ちがいい。
 後ろからバイクや車に追い越されつつ走っていると、遠くに次の駅が見えてくる。うちよりちょっと小さい普通停車駅。
「あれも駅なんですか?」
「そうだよ。あそこには普通しか止まらないの」
「フツウ?」
「各駅停車ってことよ。路線上の駅には全部停まる電車」
 こじんまりとした駅舎は何のその、ここが海水浴場の最寄り駅ってことで、夏の間は普段より多くの人が降りてくる。皆手にバスケットやパラソルや、気の早い人はもうビーチボールを膨らませて持っている。
 いいなあ、私ものんびりあんなことしてみたい。まさか今からそういうことも含めど、無人島に修行に出かけるなんて、未だに自分の状況が信じられないわ。
 ううん。いいのよ、別に無人島でも何でも。死ぬような目に合わなけりゃ、ね。

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