文字サイズ: 12px 14px 16px [August〜海と馬鹿ども〜]-02-

 だけど、私の微かな希望は音を立てて崩れ去っていった。このうっそうと生い茂ったジャングル、そして船の一つも通らないただただ遠い水平線。こんなとこで迷子になったら餓死確実じゃない。
 しかもよ。この目の前に立ちはだかる緑の壁、もといピッコロさんがセットとあっては、迷わなくても死にそう。むしろ迷って死ぬより確率が高い。
「がんがんしごいてやるから覚悟しろ」
 いえ、結構ですから。私が一般人だってことを忘れないで。そんな、腕組みしながら笑わないで。怖いから。
「ピッコロさんも、体を動かすのは久しぶりでしょう」
「そうだな。いつもデンデの世話に追われてるからな」
 しかもなに。このお母さんみたいな発言。ありえない、ありえないわ。こんなに緑色なのに。
「ところで、寝る時はどうするの?」
 どこを見渡しても屋根になるようなものはない。ただ、熱い日差しが砂浜に降り注ぐだけ。
「もしかしてテントとか」
「ありませんよ」
 ええーっ。ありませんよ、ってだったらどこで寝るのよ。もしかして、ジャングルの奥深くにロッジでもあるわけ。ううん、そんなものあるようには思えない。
「修行といえば野宿が基本だ。お前もその甘ったれた精神をそろそろ捨てるんだな」
「そんなあ。誰が基本って決めたっていうの」
「オレだ」
 あんたが元凶なのね。
「大丈夫ですよ、さん。ここだったら恐竜も住んでませんし」
 いや、それは問題じゃない。いや、問題なんだけど、着眼点っていうのが違うのよ。あのね、私たちは一応、文明人なのよ。それが、こんなジャングル迫る海岸で野宿なんて、ちょっと趣旨が違うと思わない? だいたい、サバイバルだけどそんなに危なくないっていうから私は来たのよ。もし仮に肉食獣がいないとして、その代わりに毒虫なんていたらどうするの。寝てる間に刺されてオダブツなんて、私は絶対に嫌ですからね。
 ああ、こんなことなら、虫除けスプレー一ダースくらい持ってくるんだった。こんなちっちゃいスプレー一つじゃ絶対に対応しきれないじゃない。
 と、思った瞬間、私の顔の横を何かが横切った。慌てて目で追うと、そこにはごつくてでかいピッコロさんの手。
「虫だ」
 そう言って開かれた手の中にはいかにも「毒持ってます」って看板が見えそうなほどドギツイ色の虫が横たわっていた。これは予想的中ってやつじゃないかしら。できれば当たってほしくはなかったけど。
「確か痙攣か何かを起こすものだと記憶しているが……まあ、オレには関係ないがな」
 それはまた頑丈な肉体をお持ちで。痙攣起こすって神経系の毒じゃないの。刺されたらひとたまりもないわ。ちょっともう、勘弁してよ。私はこんなとこで死にたくないんだってば。無事家に帰らせてよ、お願い。
 だけど、それはまだ序章にすぎなかった、ってこと。その日の夜中、私はこの世で一番恐ろしい体験をする羽目になる。
「とりあえず、本格的な修行は明日からってことで。今日はゆっくり体を休めてくださいね」
 そんな悟飯くんの一言に、本格的っていうのはどこまでやるのかしら、と不安に思いつつ、用意された寝袋に潜り込んだのがもうかなり夜遅くのこと。それからどれくらい経ったか、ごそごそと何かが動く音がして私は目を覚ました。
 目の前にはぱちぱちと燃える焚き火。猛獣が近付かないように、って燃やしたままのその向こう、ピッコロさんが器用にもあぐらをかいたまま寝てる。しかも地面から浮いてる。ちょっとそれどういう原理、と思ったのはもう一月も前のことで、最近では慣れてしまったせいか何の驚きも感じない。こういうのって慣れっていうより、感覚の麻痺ってやつよね。この二人といると、そのうち空からUFOが落ちてきても「あら、こんにちは」で済んじゃいそう。ああ、恐ろしい。
 まだがさごそという音は聞こえてる。それがあまりにも気味が悪くて悟飯くんに見てもらおうと思ったら、肝心の悟飯くんの姿がない。焚き火の横で一緒に寝てたはずなのに。ねえ、どこに――っていた。最初寝てたとこから海の方へちょっといったところに。もしかして、寝相だけでそこまで移動したのかしら。うん、間違いないわね。だって、寝袋にはきっちり収まってるみたいだもの。だとしたらこの音もきっと悟飯くんの寝相で寝袋がすれる音なのね。よかった。
 そう一瞬安堵の息をついたんだけど、全然いいことはなかった。あのね、何だかその音は私の足の方から聞こえるんだけど。しかも何か乗っかってるような感じがあるんだけど。しかもあまり重くないものが。
 どうしよう。見るのが怖い。だけど、猛獣だったら火の側には寄り付かないんじゃなかったっけ? だとしたらそういうものではない、と。いや、ちょっと待って。そういうのじゃないとしたら、私の足らへんにたむろしてるものは何なの。明らかに動いてるんだけど。
 ここはまず、何がいるのかをチェックするのが先よね。そう。見て、何か危ないものだったら声を上げよう。きっと二人のうちどちらかが気付いてくれるはず。
 そんな淡い期待を胸に、私は勇気を振り絞って首を動かした。ん? よく見えない。もうちょっと、と目を凝らしてじっくりと見たら、そこに何か黒い塊が。しかも、どう見ても私の足から膝まで覆ってる。
 ……た、助けて。何かわからないけど助けて。叫びたいんだけど声が出ない。喉が引きつって、あの、何かが大量にうごめいてるんだけど、何かわからないから助けて。早く。悟飯くんでもピッコロさんでもいいから早く目を覚まして。私、このままじゃ、あの塊にきっと飲み込まれちゃうから、その前に助けて。
 もうっ! なんでこんな時に限って目を覚まさないのよ! 助けてって言ってるじゃない! こんな時に揃って二人とも寝てるなんて薄情よ! ええい。地獄に落ちておしまい! だけど、その前に早く助けて。ちょっと、お願いだから早く。何これ、絶対虫よ。何か黒い帯に見えるんだけど。いや、見たくて見てるわけじゃないの。ただ、体が動かなくて、顔も動かせなくて、仕方がないから目に映ってしまってるってだけで、別に見たいわけじゃないの。ってそんなことはどうでもいいから助けてよ。もう、冗談抜きで、私こいつらに包まれちゃう!
 包む? 包むって変よね。こういうのって覆われるとかそんなことを言うのよね。あんなのに包まれたくないってば。いや、だから今問題なのはそれじゃなくって、早くどっちでもいいから私を助け――。
「どうした?」
 ――ああ、救世主現る。って、何か言いたくても声が出ない。
「おい、何とか言ったらどうだ」
 言いたいのはやまやまなんだけど、声が出ないんだってば。それより、早くこの状況に気付いて。気付かないまま戻っちゃったら、末代まで祟ってやるんだから!
 そんなことを胸に決めたのがよかったのか、数秒後、私はピッコロさんに寝袋ごと持ちあげられて波打ち際へと向かっていた。
 その、助けてくれたのは嬉しいんだけど。何でこんなミノムシみたいな格好で持ち運びされてるの。そんな心の問いに答えてくれることはなく、どうやら波打ち際まで来たのはいいんだけど、暗闇の中でざぶざぶと水を掻き分ける音がする。それと同時に足の辺りがじんわりと濡れてきて。これはもしかしなくても海の中に入ってるの? ちょっと、海の中に手も足も出ないままの私を引き込んでどうするつもり? まさか、このまま沈めてやろうとかそういう魂胆なんじゃないでしょうね。私そんなことされる覚えないわ……って言い切れないところが少々アレだけど、だからって殺されるほどのことをした覚えは本当になーいっ! もうこれ、ピンチ再び? 助けて悟飯くん!
 うっうっ。足が冷たいよう。濡れて気持ち悪いよう。どうして私がこんな目に合わなきゃいけないの。溺死って一番苦しいのよ。しかもこんな逃げられない状況でだなんて。ああ、何か揺れ動かされてる。きっとこうやって勢いをつけて、遠くまで放り投げるつもりなんだわ。ピッコロさんの腕力なら再び水面に着地する頃にはもう、岸なんてほど遠い場所だろうしね。足もつかない場所で、私は魚の餌となるのよ。食物連鎖よ。
「これでよし」
 何がよしなの、ナメック星人。私は全然「よし」じゃない、ってあれ?
「ピ、ピッコロさん……」
 真っ暗で顔は見えないけど、恐らく、と思われる方向を向いて呼びかけると返事がした。
「……いったい、何してたの?」
「蟻を洗い流したんだ」
 アリ?
「お前の寝た場所がちょうど通り道だったんだろうな」
 ってことは、あの黒い塊はアリで、ピッコロさんはそれを海で洗い流したっていうの? それならそうと早く言ってよ。疑っちゃったじゃない。
 そうこうしている間にも、ざばざばと水を掻き分ける音は響いていて、だけどそれもついには止んで、しっかりと陸地の感覚が足に当たる。ああ、私は再び陸地に帰ってきたよ! まあ、私が勝手に疑っただけなんだけどね。ごめんね、ピッコロさん。今度はずるずると引きずられてるけど文句言わない。と、ここでピッコロさんが立ち止まった。
「まったく、世話の焼ける奴らだ」
 そう言ってまた火のところへと歩き出す。奴らって? そんな疑問が湧いたけど、それはすぐにわかった。ピッコロさんは左手で私を掴んで、右手にはこれまた同じように寝袋を引きずられてる悟飯くんがいたから。いったい、いつの間にこんな距離を移動してたというの、寝相で。
 結局、あの場所は少々危険だということで、数百メートル離れた(とピッコロさんが言ってた)場所で私たちはその夜を明かした。寝袋と寝巻きを乾かしてもらって再び夢の中へと旅立った私は、海から昇る朝日の眩しさ――そして、息がつまりそうなほどの重みで目を覚ますことになる。
「た、助けて、ピッコロさん……!」
 目覚めて最初にそうやって助けを呼んだのに。ちゃんと声に出して、名前まで呼んだのに。
「それくらい、自力で抜け出すんだな」
 そう冷たいお言葉をもらって、私は何とか頑張ってみたんだけど。体をねじったり、必死に起こそうと試みたんだけど、それでもやっぱり、ぐーぐーいびきをかく180cmの筋肉の下から抜け出すことはできなかった。

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