文字サイズ: 12px 14px 16px [June〜降り続ける雨の中で〜]-01-

 窓を開けてはあっとため息をつく。今日も、これでもかってくらい降ってる雨。もう三日は降りっぱなし。
 私、雨って嫌い。そりゃね、水不足だの農作物への影響云々って話になったらそんなことは言えないけど、個人的にはすごく嫌い。まず、跳ねがあがるでしょ。それから化粧が崩れて、じっとりして気持ち悪くて、セットした髪もぐちゃぐちゃになっちゃうし、それに。
 私はベッドから起きて、すぐさま台所に向かった。ああ、昨日コンビニで「お箸ください」って言っておいてよかった。もう割り箸のストックが切れそうだったのよね。これがなきゃ、私は一日中恐怖に震えながら過ごさなければいけないもの。
 袋から出した箸を割って、一本携えてそのまま窓へ。カーテン開けて、いつものようにカラカラと窓を開いて目標確認。
「ええいッ!」
 声に出して、割り箸を窓ガラスに沿って滑らせる。そして敵が罠にかかったのを確認して、割り箸をこれでもかってくらい外へと向けて振りまくる! とたんに放物線を描いて外の草むらへと落ちていく、黄色がかった半透明の物体。ああ、今日は一匹だけなのね。何かいいことあるかも。
 私、ナメクジとかカタツムリってダメなの。何でダメって聞かれてもしょうがない。生理的にダメなの。実家にいた時はお母さんがさっさと捨ててくれてたんだけど、一人暮らしの今じゃやってくれる人は誰もいない。全部自分でやらなきゃいけない。
 ここは田舎だから余計に多いのね。越してきて最初の梅雨、窓に張り付いてた奴らを見た時は半狂乱になったわよ。ほっといたらどこかに行くんだろうけど、もう窓のとこにいるっていうだけでダメなの。共生なんてできない。
 だいたい、ナメクジって名前からしてぞっとするわよ。名前だけで四文字もあるのよ。アレを呼ぶのに、四文字も発音しなきゃいけないのよ。友達は全然平気らしくてよく名前連発してるけど、私は無理。アレとか奴とか。決して名前でなんて呼んでやんない。呼んでやって二文字までよ。そうよ、「ナメ」だけでいいんだわ。だったら一見何のことかわからないし。ほら、「ナメ」で始まる言葉ってけっこうあるじゃない。ナメタケとか、「ナメんな」とか、ナメックとか。
 その単語が浮かんだとたん、一気に心が重くなる。ああ、ナメック。私が初めて遭遇した宇宙人。
「やーめやめ。私はもう無関係なんだから」
 孫くんとは何だかんだで話はするけど、あの危険な誕生日パーティー以来、あいつには会ってないもんね。どうせあっちも会う必要はないんだし。数年後に「ああ、そういう人もいたわね」って思い出せる程度のもんよ。そもそも「宇宙人に会った」なんて言っても信じる人いるわけないし。もし仮に信じる人がいるとしても、あんな危険な奴を他人様に引き合わせるなんてやめといた方がいいわ。
「さーて。ご飯食べて学校行かなきゃ」
 自分にそう言い聞かせて、さっさと準備。テレビを見ながらいろいろして、準備が終わったのは、午前十時過ぎ。そこから雨の中を徒歩で大学に向かう最中、ぱしゃぱしゃと水を跳ねながら近付いてくる足音と共に私は呼び止められた。
「おはようございます、さん!」
 そこにいたのは、ズボンの裾を盛大に濡らした孫くんだった。ちょっとどうすんの、そんなに濡れて。
「でも、学校いる間に乾きますよ」
 けっこうアバウトなのね。
「それより、今日あいてます?」
「今日?」
「確かアルバイトはなかったな、と思って。先週も暇だって言ってましたよね」
 いつの間にやらスケジュールを把握されてるわ。いけない。乙女のスケジュールは秘密あってこそなのに。
「暇だけど……。何かあるの?」
「え、まあ。ちょっと付き合ってもらいたい場所があって」
 付き合ってもらいたい場所? どこかしら。ピッコロのいないとこならどこでもいいわよ。
「とりあえず、四限終わったら校門で待ち合わせでいいですか?」
「わかった。四限の後校門ね」
 孫くんと出かけるってことは、別にお金下ろさなくてもいいな、なんてことを考えながら、適当に世間話だのレポートの話だのして、校門をくぐったところで孫くんと別れる。私はまっすぐ自分の学部へ。孫くんは二限は般教だって言って右側の校舎へ。私は友達と合流した後、ほとんどの授業を階段の上の方で聞いていたんだけど、そこでふとそういや孫くんはいつも下の段、というより、私と一緒に座らなかった頃には一番前で授業を受けてたな、というのを思い出す。
 孫くんを初めて見たのはいつだったかな。確か新学期始まって数日だったと思う。入ってきた頃はまったく知らなかった。だいたい、うちって学部ごとの偏差値がこれでもかってくらい違うから、入ってくる人間もいろいろなのよね。その中にはもちろん高校を飛び級して入ってきた子もいれば、卒業後浪人してまで入ってきた子もいる。だから孫くんだってそんなに珍しい存在なんかじゃなかった。孫くんが行ってたサタンシティのオレンジハイスクールなんてごく普通のレベルの学校だし、それより上の高校からうちの大学に入ってきた人もいっぱいいるし。ただ、彼の入った理学部っていうのが曲者で。
 うちの大学は文科系なら法学部、理科系なら理学部って言われてて、いわばうちでトップクラスの学部に孫くんは入ってきたわけだけど、その理由がまた生物学科の何とか……何だっけ? その教授に師事したくて入ってきたらしい。その何とか教授ってのが書いたこれまた何とかっていう論文が孫くんのハートを揺さぶったと熱く語ってくれたけど、何でもそれを目にしたのが十二歳。すでに私の想像を超えてるわ。そこで、入学して早々、孫くんは教授のところに熱烈アタックを開始したらしく、一回の頃から部屋に入り浸っていろいろ独学で研究してるとは言ってたけど。
 ただ、早くゼミに入りたいって話をしてもそれは三回からじゃない。だから、あのくそ難しくて偏屈な教授の多い理学部で、大学内で一番留年が多いと言われる理学部で、一回、二回に必要な単位をたったの一年間でそろえて飛び級だなんてまず無理だろうって言われてたのね。それが、一年で何十単位って言ってたか、とにかくすごい量をとって、ぽーんと飛び級しちゃったからさあ大変。学部内ではあっという間に噂が広がっちゃったらしい。それがさらに広がって、大学内でちょこちょこ話に上るようになって。
 私は理学部に彼氏のいる友達から聞いてたまたま知ったけど、生物学科で飛び級なんてここ二十年なかったっていうのを聞いた時はちょっとビックリしたわ。二十年って、そもそも孫くん生まれてないじゃない。それってとんでもないことで、そりゃ大学でも有名人になるわって話だけど、孫くん本人はそんなことを鼻にもかけず学生生活を満喫してる。本当、人は見かけによらないってよく言ったもんね。ぱっと見、ごくごく普通の男の子なのに、やたら頭がよかったり、さらに何度も死と隣り合わせの戦いをしてきたとか、あまつさえ実は地球人とサイヤ人とのハーフとか。事実は小説より奇なりとは言いえて妙。おそらく私がSFを書いてもそんな突飛な設定は作れない。
 その突飛な人と待ち合わせして空を移動すること数十分。「雨の降ってない場所に行きましょう」と言った孫くんに連れられて私がやってきたのは、どこかもわからない島の浜辺。聞けば、ここはちょうど私が住んでるとこから地球を四分の一周したくらいの場所に当たるらしい。ええと、そこに数十分でついてしまったというわけ? 世界一周旅行なんて夢のまた夢と思ってたけど、ここにそれを日帰りでできちゃうような人がいるわけね。そう考えると自分がいかに小物なのか思い知らされるわ。
 それだというのに孫くんは「ちょっと待っててくださいね」と言ってまた飛んでいってしまった。もちろん「待って」って言ったわよ。「置いてかないで」って叫んだわよ。それなのに「すぐに戻ってきますから」ってそんな無責任な一言を残して。ああ、何て薄情な。こんな浜辺に私みたいな年頃の乙女がいたら海賊に攫われてしまうじゃない。あら、そういやこんな砂浜に海賊とかいるのかしら。
 見渡してみると浜辺なのはほんの一部だけで、砂浜のずっと続いた奥の方には切り立った崖がある。こう、いかにも『自殺の名所』って感じの崖が。そのまま後ろを向くとうっそうと茂った森。もちろん、人の気配はおろか、海を見たって浮いてる船なんて一つもない。
 とたんに私はぶるっと身震いをした。何ていうのかな、こういうの。誰もいなくて私だけで、逃げ場所はここしかなくて、逃げる方法はなくて。そう思うと後ろの森も、暗くて気味悪い。今にも何か飛び出してきそうじゃないの。ああ、やだ。こんなとこにいたくない。さっさと帰りたい。お願い孫くん。早く迎えに来て。
 だけど、待てど暮らせど人影はなく。もう私はここで三十分という時を一人で過ごしている。三十分よ、三十分。この何もないとこで三十分。靴脱いで海で遊んでみたけど、一人じゃすぐに飽きてしまって、私はこうやって一人、膝を抱えたままぼーっと海を眺めている。よく見ると綺麗な海ね。こんな素敵な海、愛しのダーリンと見れたら最高なんだけど。こう、夕日が照らす中、二人で浜辺に座って肩を抱き合って「これからもずっと一緒だよ」とか。「もう一生君を離さない」とか。ロマンティックねー。憧れるわあ。ああ、まだ見ぬダーリンはいずこ。
 何だか寂しくなっちゃったわ。青い空と蒼い海。それを目の前に何でこうやって一人妄想してなきゃいけないの。これだったら雨降りの中、物体ナメと格闘してる方がずっと暇潰しになるわ。
 そんなことを思ってると後ろでがさり、と音がした。ふと振り返るとがさごそという音がこっちに近付いてくる。もしかして孫くんなの? ああ、もう待ちくたびれちゃった!
「孫くーん。ここよー!」
 人恋しさに思わず森の中に向かって呼びかける。私はここよ、ここ、ここよ。もう晴れた空は十分堪能したから家に帰して。

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