文字サイズ: 12px 14px 16px [June〜降り続ける雨の中で〜]-02-

 ああ、もう。何してたのよ。こーんなとこに女の子一人三十分もほったらかして。どうしてもっと早く迎えに来てくれなかったの。
 そう言おうと思ってた。姿が見えるまでは。じゃあ、何で言わなかった、いや言えなかったのかというと、目の前に現れたのは孫くんでも何でもなく。これはその、どう見ても私はとんでもなくヤバいことになってるわよね、うん。で、でも、こんな時は及び腰になっちゃいけないって。相手に自分は強いんだぞ、って見せつけなきゃいけないって聞いたことがある。それから何か武器を持って……ダメだ。探してる間にきっと喉に咬みつかれてしまう。とにかく目を逸らしちゃいけない。
 膝ががくがく音を立ててるのが自分でもわかる。ああ、そういやピッコロに睨まれた時もこんな感じだったわね。でも、今目の前で体低くして牙むき出しにしてる獣に比べたら、あの目は天使さまよ。そう、慈愛でもって温かく見守ってます系の、周りが光り輝いて見えるほど穏やかな眼差しよ。
 孫くんの馬鹿馬鹿馬鹿。どうして私がこんな目に合わなきゃいけないの。何で大学生の私がこんな誰もいない砂浜で森から出てきた獣に喰われて死ななきゃいけないの。ああ、死ぬなんて考えちゃダメ。もしかしたら、ちょっとしたことで助かるかもしれない。そうだ、砂よ。砂を投げつければ目くらましにはなる!
 考えた瞬間私は足元に腐るほどある砂を掴んで投げた、とたん。
「キャ――――ッ!」
 相手がぐっと足に力を込めたのがわかった。咬まれるのは必至。ああよく交通事故に遭った人が「車が近付いてくるのがスローで見えた」って言うじゃない。それと同じで、獣がこっちに走ってくるのがスローに見えて。きっとこういう時って人間、動体視力が半端なく上がるに違いない。
 でもそのスローな中、自分の体が後ろに傾いているわけで。どさっと音がして背中一面に触れる砂の感触。もう絶体絶命。ああ、牙が光って見えるわ。
「キャウン!」
 聞こえたのは甲高い声。そして目の前に広がる白。ああ、ついに咬まれてしまった。痛みも何も感じないわ。それより顔にぱしぱしと当たるこれ何。もしかして、獣のしっぽとかそんなんじゃないでしょうね。こんな、干されてるシーツに顔突っ込んだみたいな感じのするしっぽ聞いたことない。――ん? シーツ?
 何度か瞬きをして、目を凝らすと明らかにシーツ。何でこんなとこにシーツがあるの。しかもこのシーツちょっと分厚いわ。私の使ってる二枚1500ゼニーの安物じゃなくて、もっといいやつなのね。ああ、触ってみるとちょっとごわごわしてるけど私のよりは断然肌触りもいい。何でこんなとこにシーツがあるかどうかは別にして、こんなシーツで寝れたら幸せね。
「何をやってるんだ……?」
「何ってシーツ」
 シーツ? ちょっと私現実逃避してたわ。そういや襲いかかってきたやつはどうしたの? 痛みも何も感じないってことは、私は死んだのかしら。こんなにあっけなく? 死ぬってこんなにあっけないものなの? 獣に咬まれて死んだのに、こんなにもあっさりと死ぬなんて。きっと日頃の行いがよかったからね。でもこれで一つはっきりしたわ。孫くんが言ってた通り、死後の世界はあるのよ。私が今体験しているもの。ああ、みんなに伝えたい。それなのに伝えられないこのもどかしさ。
 死後の世界でも太陽は眩しいものね。ああ、太陽ってこんなに有難いものだったのね。ほら、見上げれば太陽が、とその手前に逆光で見えないけど、肩越しにこっちを振り返っている誰かの顔。きっと私の王子様よ。死んだ後だけど、こうやってシーツにくるまってお日様の下、理想の人と幸せな時間を過ごせってことなのね。あら? この王子様耳がとんがってるわ。そんなこと別にいいけど、目つきも何か悪い。ちょっと理想と違うじゃないの。私が好きなのは、もっときりっとしててそれでいて優しい目をした人なのよ。こんなのタイプじゃないわ。ちょっと。
「チェンジお願いします」
「ハア?」
 ハア?って何よ。失礼ね。
「……恐怖で気でも狂ったか」
 何ソレ。それよりあんたはとっとと帰って。私の好みじゃない――。
「ピ……」
 その顔を認識した時点でそんな言葉が口を出た。見間違いじゃない。どう見てもこれは。
「ピッコロ?」
「何だ」
「まさか、ピッコロ?」
「だから何だと聞いている」
「もしかして、ピッコロ?」
「おい。本当におかしくなっちまったんじゃないだろうな」
 ピッコロがなぜか不安そうに呟いて体を動かしたとたん、ごろりと寝転がった姿勢のまま手の中のシーツがずるずると引っ張られる。待って! せっかく幸せなのにピッコロで台無しで、その上これまで奪うことないじゃない!
「手を離せッ」
「嫌よ! 何で王子様じゃなくてあんたで、その上シーツまで取られなきゃいけないのよ!」
「な……なに寝ぼけてやがる!」
 ぐっと引っ張られる感じと一緒に手の中からするりと抜けてしまったシーツ。ああ、私のシーツがピッコロに取られちゃった。もう生きてく気力ない……って死んでるんだっけ。だけど、顔を上げるとそこには、はたはたとひらめくシーツ。これならまだ奪い返せるわ!
「たあっ!」
 叫び声と共に私はシーツを引っ掴んだ! やったー! 今度は何があっても離さないわ! ああ、私のシーツ。不可抗力とはいえ手放してしまってごめんね。これからはずっと私の身を包んでいくのよ。うん。もう離さないよ。
「仕方がない……」
 そんな声が聞こえて、シーツが引っ張られる感触再び。ダメ。もう離さないって決めたんだから。そんな私の思いが通じたのか、どさりという音と共に引っ張られる感触もなくなった。ピッコロもついに諦めたのね。ふふん、私の勝ちよ。
 視線を動かすと、いつの間に座り込んだのか、ピッコロの背中が見えた。でも何か違う。それが、マントがないせいだと気付いたけど、こいつのマントなんて今更どうでもいいわ。さて、後はあんたがいなくなってくれれば、楽しい私の死後ライフが本格的に始まるんだけど。
「……残念なものだな」ピッコロがぽつりと呟いた。「今更礼を言おうにも、通じんとは」
 お礼なんて言われるようなことしたかしら。ああ、そういえば誕生日プレゼントあげたお礼がまだだったわね。それよりこのシーツの感触。包まってみると温かくて太陽の匂いがする。何だか優しい気持ちになってくるわ。そのお礼ってやつも聞いてあげようかしら。
「お礼ってなあに?」
 そう言ったとたん、ぎょっとした顔をしてピッコロが振り返った。何よ、聞こえてないとでも思ったの。でもすぐにピッコロの顔は見たこともないほど穏やかなものになった。何だ。そんな顔もできるんじゃない。でも調子狂うわね。
「一月半ほど前、お前からもらったものがあってな」
「白のニット帽でしょ。忘れるわけないじゃない」
「ほう、それはわかっているのか。それをもらった時はとんでもないもらい方をしたもので思わず怒鳴りつけてしまったんだが、後で中身を見て済まないことをしたと思ってな。悟飯からも好意を無碍にするのはよくないと言われ、こうしてやって来たんだが……」
 そこで言葉を止めて、最後にぽそっと「こうなる前に伝えておくべきだった」と一言残してピッコロは黙ってしまった。こうなる前。そうね、こうなる前にそんなことを言われてたら、私の考え方もちょっと変わってたかもしれない。少しは友好的な関係を築けたかもしれない。
「そうね。私も謝っとけばよかった」
「謝る? お前がか?」
「そう。私も頭に血が上って、ひどいことしちゃったし。いきなり顔に紙袋押し付けられて痛かったでしょう?」
「別に痛くはなかったが少々腹は立ったな」
「そうよね。あんなことされたら私だってきっと怒ってる。本当にごめんね」
「いや……その、オレこそ怒鳴りつけて済まなかった」
 戸惑いがちにそう言ったピッコロは、私が知ってるピッコロじゃなかった。私が知ってるピッコロは乱暴で、すぐキレて、ものすごく腹の立つ奴だったけど、今目の前でしゃべってるのは、孫くんが言ってた通りのものすごく人間くさい奴で。こういうとこも知ってたら私も自然とピッコロ「さん」って呼んでたかもしれない。もう遅いけどね。
 そういえば、現世では今頃どうなってるのかしら。孫くんが私の死体を発見して、慌ててるとこかしら。それとももう何日も経っちゃって、私のお葬式も済んだ? お父さんもお母さんも泣いてるだろうな。最後に会話したのは確か急に蒸し暑くなって、夏服送ってもらって「届いた」って電話した時だ。あれが最後だったなんて信じられない。顔を見たのはさらに前、ゴールデンウィークだよ。……死ぬ前にもう一度でいいから会いたかったな。
 何より孫くんは責められてやしないかしら。お願い。お父さん、お母さん。孫くんを責めてあげないで。孫くんだって、悪気があってあそこに連れてったんじゃない。きっと私に晴れた空を見せてあげようって思ってくれたんだよ。私が、雨がうっとおしいってこぼしてたから。
 それから今まで仲良かった友達みんな。まさか私がこんなとこで、獣に襲われて死んだなんて信じられないでしょうね。でもあまり泣かないで。「こんなとこで死んだ子がいた」ってネタにしてくれた方がうんといい。それが私への供養になると思って、ね。
 そういえばピッコロは何でここにいるんだろう。元神様だからかな。確かに神様だったらこの世とあの世を行き来することも可能かもしれない。でも、まだ死んでないからいずれあっちに戻っちゃうんだろうな。そう考えるとちょっと寂しいな。
 ああ、何かじんわりしてきた。知らず知らず涙がこぼれて、ぎゅっと目を瞑る。それでもボロボロ涙は出てきて、すごく寂しくなって思わず目の前に見えたピッコロの服に手を伸ばして掴んだ。とたんにピッコロがびくっとして振り向く。
「……どうした」
「お願い。もうちょっとだけここにいて」
 しゃくり上げながらそう言うと、ふっとため息をつく音が聞こえた。
「安心しろ。落ち着いたら悟飯を呼んでやるから……と、悟飯のことはわかるか?」
 ? わかるに決まってんじゃない。でもそれより私驚いてるんだけど。
「孫くんにもこんな能力あるの?」
「……能力?」
「だから、この世とあの世を行き来する力が孫くんにもあるのかって」
「この世とあの世を行き来する力? そんなもの悟飯はおろかオレにだってない」
 そこまで言って、ピッコロははっと目を見開いた。「そうだ。お前は――」
 その後に続いた言葉に私はぶっ飛んだ。ぶっ飛んだついでにめちゃくちゃ腹が立った。こいつ、やっぱり嫌な奴だわ。何よ、人のこと頭がおかしくなったって。私はちっともどこもおかしくなっちゃいないわよ!

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