文字サイズ: 12px 14px 16px [June〜降り続ける雨の中で〜]-03-

「ちょっと」掴んだままの服をぐいぐい引っ張る。
「頭おかしいって失礼じゃない。私が頭おかしかったら、あんたなんか、レベルマックスでおかしいわよ」
「何?」
 言ったとたん、ピッコロの顔から穏やかさがすうっと消えた。ああ、これが私の知ってるピッコロよ。このちょっと不機嫌そうで、突っついたらとたんにバチンとぶっ放しそうなこの顔――だったのに、ピッコロは再びやれやれと言った様子でふっとため息、ついでに頭をゆるく振ってくださった。これって台詞をつけるなら「困った野郎だぜ」とかそこら辺よ。それがまた腹立つ。
「な、何よ」
、お前の言いたいことはよくわかった。確かに人は狂ってもなお、自分が狂人であることには気付かんという。要するに対処できん事柄について『そんなことがあるはずはない』と自分で否定してしまうわけだ。周りの人間も本人の機嫌を損ねるのも気が引けるので、気付いてはいても口にはしない者が多いという。だがな、オレはお前のためを思ってはっきり言ってやる」
 いかにお前と言えども悟飯の友だからな、とわけわかんない前置きをして。
「お前は頭がおかしくなってしまったんだ。わかるか?」
 うん、わかる……わけあるかー! 私のどこがおかしいのよ。おかしいってのはあんたよ。死んだもんにそんなこと言うためにわざわざ来たっての?
「おそらく野犬に襲われた時の恐怖からだろう。オレはあんな奴ものともせんが、お前のような一般人には今まで味わったことのない恐怖だったろうな」
 何、その憐れんでる目。何でそんな目で私を見るわけ?
「よし。落ち着いてきたようだし、悟飯を呼んでやろう。その後は専門の医師を紹介してもらうといい」
 そう言って、口を噤んだピッコロと私の間に流れる、微妙だけでは表現できないような沈黙がどれほど続いたか。びゅうっと風を切る音が聞こえたとたん、頭の上から聞き慣れた声が聞こえた。
「どどど、どうしたんですか、ピッコロさん!」
「こいつの頭がおかしくなった」
「おかしくなんて……えええええッ!?」
 そんな、この中で一番パニくっている孫くんの声が。またおかしいって言ったわね、ピッコロ。恨むわよ。
 そして私がおかしいと言われた孫くんはそのまますっとピッコロの反対側、私の右手に降りてくるやいなや、私の顔をまじまじと覗き込む。でも何より驚いたのはこっちよ。ピッコロは「そんな能力はない」って言ってたけど、現に孫くんはこうやってあの世まで来てるじゃない。
さん、僕のことわかります?」
「うん」
「名前、言ってみてください。僕の名前」
「孫悟飯、でしょ?」
 そう答えたとたん、孫くんはほっとため息をついた。
「じゃあ、この人は?」
「ピッコロ」
 反対側を指差した孫くんの指に沿って振り返り、そう答えた私に、孫くんの顔にようやく笑みが戻る。それからはもう質問責め。私の家の住所とか、実家の場所、専攻してるものから、年齢生年月日、果てには孫くんから聞かされた孫くんや孫くんの家族のこと、デンデくんやピッコロのこと。それに次から次へと答える私に、最後の質問を投げかけて、孫くんは一言「大丈夫じゃないですか」と文字通り胸をなで下ろした。
「大丈夫ですよ、ピッコロさん。さん、どこもおかしくありません」
「オレは記憶喪失になったとは言ってないぞ。頭がおかしくなったと言ったんだ」
 その情報間違ってる。思い切り間違ってる。なのに孫くんは「ええッ?」と素っ頓狂な声を上げて、次に「どういうことですか?」と聞く。
「そいつはな、この世とあの世を行き来するだのわけわからんことを口走ってるんだ。それに――」
 ピッコロはそこで、私がくるまってるシーツを摘み上げた。「これをシーツだと思ってやがる」
 そう言われて疑問に思ったのはこっち。何よ、これのどこがシーツじゃないっていうの。あんだけぱたぱたとはためいてて、白いし、どう見たってシーツじゃない。ほら、手触りだって。
「あの、さん」
「何よ?」
「これ、シーツなんですか?」
 孫くんまでシーツを摘み上げてそんなことを言う。何よ、どう見てもシーツだって。孫くん目が悪いの? その割には目がマジね。そこまで言うんなら確かめてあげようじゃない。ほーら、二人ともご覧。シーツの全貌……を?
 ごそごそ起き上がって端っこを掴み、広げたところで私ははた、と止まった。その、シーツにしては形が変。そもそも長方形じゃない。どちらかと言えば、私が持ってる方を下底にして台形で広がってるその布は、上底の辺りにカヌーのようなものがついている。ばさっと広げようと振ってみたけど、そのカヌーが邪魔してシーツはピンと張ってしまう。それにしてもこの形、どこかで見たことあるような。
「だけど、シーツじゃない」
「えっ?」
「これ、シーツじゃない」
「当然だ」
 驚いた孫くんと、フンと鼻を鳴らしたピッコロと。二人の間でそれを広げたまま私は頭を整理しようとするんだけど、どうにもうまくいかない。ええと、そもそも私はこれを何でシーツだと思ったのかしら。
 あの時、獣――ピッコロがさっき「野犬だ」って言ってたやつ――に襲われて、次の瞬間目の前にこれがはためいていて、ばさばさとはためくもんだから、私はシーツだと思ったのね。それでピッコロと取り合いをして、見事勝ち取って、それからずっと包まってたんだっけ。そういや、何か足りないと思って……ああ、ピッコロのマントだわ。ピッコロがマントつけてないなって思って、でもそれはどうでもいいから置いといて。
さん、どうしたんです?」
「ちょっと待って。今頭の中を整理してるから。まずね、これはシーツじゃない。じゃあ、何で私はこれをシーツだと思ったかってとこまではわかった。ただ、これが何でいきなり目の前に現れたかわかんない」
「えっと。それで、それが目の前に出た時はどんな状況でした?」
「だから、私が野犬?に襲われて咬まれて死んじゃった瞬間に目の前にこれがあって、それで」
 私が頭の中をまとめながら孫くんに説明してる最中に、背中を向けたままだったピッコロがいきなり立ち上がった。何よ、人の話は最後まで聞きなさいよ。
「つまりはこういうことだ」
 そう言って、カヌーに手を伸ばすとひょいと持ち上げ、そのままかぶって――。
「あーッ!」
 その瞬間、ピタッと線が繋がった。ピッコロに足りなかったものイコール私のシーツ! ちょっと待って。つまり私はピッコロのマントをシーツだと思い込んでたってこと!? 何で私はこんなのとシーツを間違えたのかしら。きっと野犬に咬まれてそのまま死んじゃったから混乱してたのね。
「それともう一つ」これでもかというほどぶわっさあっとマントをはためかせてピッコロは言った。
「お前は野犬に咬まれたわけでもなければ、ましてや死んだわけではない」
 ……どういうこと? だって私咬まれて現に死んでるじゃない。だけど、私が「えっ?」と言うより前に、孫くんがその言葉を上げた。
「どういうことですか? 死んでるだの死んでないだの。ピッコロさんもさんもちょっと落ち着いてください。話食い違ってますよ」
「オレは落ち着いているだろうが」
「私だって」
「いいえ、二人とも勘違いしてます。まず、初めにさんは死んでません」
 嘘。あんなのに咬みつかれて死んでないわけないじゃない。
「とにかく死んでないんです。ほら」孫くんが突然手首を掴んだ。「ちゃんと脈だってあるでしょう?」
 言われて手首に指を当ててみると、孫くんの言うとおりちゃんと脈はあった。ああ、本当に私死んでない。
「それで、ピッコロさんはですね。さんがあの世だのこの世だの言い出したから、てっきり頭がおかしくなってしまったと思ったんですよね」
「それだけじゃない。現にこいつは――」
「はい。ピッコロさんのマントをシーツだと思ってたってことですよね。それもただ単に勘違いであって、別におかしくなったってわけじゃありません。さんはただ混乱していたんです。野犬に襲われて咬まれる直前に視界が遮られてしまった、そうでしょう?」
 えっと、私に聞いてるのね。「そう、たぶんそうよ」
「そこで食い違ってしまってるんです。ピッコロさんは、野犬を退治したんですか?」
「そうだ。ちょうどこいつの姿を見つけた時に飛びかかるのが見えたから、蹴っ飛ばしてやった」
 また蹴ったの。本当に足癖の悪い人ねえ。
「それで野犬は逃げてしまったんですよね? だけど、さんにはその一部始終はピッコロさんのマントに遮られてまったくわからなかった。だから、てっきり自分は野犬に咬まれて死んでしまったと思い込んだんです」
「普通ならすぐに助かったと気付くだろうがな」
「人間、パニックになるとわからないものです。それが特に生死に関わるような場合は」
 そうよ。どこぞの宇宙人とは違うのよ。私はそんな危険な目になんて一回も遭ったことないんだから。あら、ピッコロが睨んでるわ。
 だけど、孫くんが丁寧に説明してくれたおかげでようやく私にも理解できた。私は死んでなくて、野犬にも咬まれてなくて、ついでに咬まれなくて済んだのはピッコロが追い払ってくれたから。うん、よくわかったわ。でもそうなると一つ疑問が残る。
「そもそもピッコロは何でここに来たの? 散歩?」
 空飛んでて散『歩』も何もないと思うけどね。なのに、私がそれを口にした瞬間、二人は示し合わせたみたいに押し黙ってしまった。やだ、ちょっと何か言ってよ。私、別に地雷踏むような発言なんてこれっぽちもしてないわよ。ただ、ピッコロが何で私を見つけたのか聞いただけじゃない。
「そ、それはですね……」
 孫くんが明らかに何か隠してる風に口を開く。
「ほら、それはピッコロさんから言った方が」
「馬鹿言え。初めに言い出したのはお前だろうが」
 小学生じゃあるまいし、男が二人揃って責任の擦り付け合いなんてしてんじゃないわよ。さっさと言っておしまい。そう思ってる私の前で二人はまだ問題の押し付け。何よ、そんなに言いにくいことなの。そんなに言いにくいことをわざわざこんなとこまで連れてきて、あんな危険な目に遭わせてまで聞かせようっての。どっちでもいいからさっさと言いなさいよ。
「とにかくオレはもう帰る!」
 え? 帰るの?
「ちょ、ちょっと待ってくださいピッコロさん!」
 飛び立ったピッコロを追いかけようとした孫くんを私は必死で引き止めた。もう嫌よ。こんな危ないとこに一人で置き去りにされるなんて!
「お願い、一人にしないでよ」
 そう心からの嘆願を孫くんは受け入れてくれた。まあ、これで置いていったら末代まで祟るけどね。
 ふと空を見上げれば、すでにピッコロの姿はなかった。逃げ足が速いというか何というか。あいつ、自分の都合が悪くなったら逃げるわよね。逃げなかったら怒鳴る。二パターンしかないなんて、何てわかりやすい。

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