文字サイズ: 12px 14px 16px [真夜中の青空]-01-

 俺は。彼女なし、一人暮らしの冴えない、どこにでもいる二十九歳のサラリーマンだ。小中高と公立、大学は三流の私立を出て、滑り込むような形で就職したはいいが、入った会社は上司との関係が最悪で、半年我慢した後、辞めさせてくださいと頭を下げた。その後、二ヶ月の無職生活の末、またもや滑り込みで今の会社に再就職した。東京の本社で五年働いたあと、昇進という名目で大阪に飛ばされて今に至る。
 正直言って、めちゃくちゃ忙しい。日曜に休みはあるものの、土曜の休みは金曜になるまでほぼわからない。朝八時半に出社して、帰るのはだいたい終電間際。給料だって平均よりちょっと安い。
 二十九歳にもなりゃ、親だって何かと言ってくる。何かって全部結婚の話だ。彼女なしで四年、顔を合わせても合わせなくても、見合いはどうかと勧めてきて、今まで二回ほどやってみた。一人目はえらい綺麗な女だったけど、爪が気持ち悪いくらい長かった。それでもかなりイイとこまではいって、見合いもなかなかいいんじゃないかって思ってた矢先に――フラれた。結婚は最低でも年収八百万の男じゃないと無理なんだそうだ。無茶なことを言う。俺の年で年収八百万の男を探すって方が難しいんじゃないのか。
 俺はその時点でかなりめげたが、親はそれでもめげなかった。さっさと二人目を手配して、たった半年後に二度目の見合い。何が何でも俺を二十代の間に結婚させたいらしい。姉貴二人はとうに結婚、男は俺一人だから仕方がないと言えば仕方がない。
 二人目はまあまあかわいい、中の上って子だった。けど俺からフッた。部屋が死ぬほど汚かったからだ。
 付き合い出して何ヶ月だっけな。初エッチは俺の部屋で、その後もたいてい俺の部屋か、目に入ったラブホか。そうなってくると、一人暮らしって彼女の部屋が気になりだす。しかも俺はその頃ちょうど浮かれまくっていた。仕事もそれなりに順調で、彼女はすごい優しい子だったし、何もかもがうまくいってるような気がしていた。その浮かれっぱなしのまま、俺は彼女の部屋に突撃した。家の場所は送り迎えで知ってたから行くのは簡単、急に顔を見せて彼女を驚かせてやろうって思ったんだ。
 でもドアを開けた彼女の後ろに見えたのは、部屋を埋め尽くすゴミの山だった。俺だってちょっとくらい部屋が汚くても文句はない。自分の部屋だって人のことは言えないレベルだし、片付けが面倒だって気持ちは痛いくらいよくわかる。だからちょっと足の踏み場が……ってくらいならいい。一緒に片付けるってのも、なんかいいじゃないか。
 だけど彼女の部屋はそんなもの完全に超越してた。強いて言えば、新聞でもたまに目にするゴミ屋敷ってやつを部屋の中にぎゅっと閉じ込めたってくらいだ。もうあれは素人が片付けられるってやつじゃない。掃除のプロに任せるべきだ。そうでなきゃそのうち、ゴミに埋もれて死んでしまう。
 そうして俺はまた一人になった。一人も一人、一人ぼっちだ。日曜は寝るか、適当に出かけるか。たまに友達とも飲みに行くけど、みんなの話を聞いてると、俺の人生ってなに?と疑問に思うことの方が断然多い。もう結婚してるやつもいれば、仕事をばりばりこなしてるやつもいる。その中で俺ってすごく中途半端だと思うんだ。
 だが、その中途半端な生活も続けているとなかなか心地がいい。朝起きて、ひげ剃ってメシ食って、満員電車に詰め込まれて会社行って。得意先に頭下げたり、たまに昼メシおごってもらったり、
「キミ、ちょっとええ店で飲まへんか」
 って誘われて、相手の金で綺麗なお姉ちゃんと飲んだり、そうじゃない日は会社で同じ残業組と寂しく出前取ってみたり。で、こうやって、酒くさい終電に乗って家に帰る。帰ったらぱっとシャワー浴びてすぐねんねだ。そんでまた朝が来る。
 毎日変わらない生活ってのはいい。安心感がある。よく肩を叩かれた中年サラリーマンが自殺ってニュース。まあ、わかる。そりゃ家族の今後がとかあるかもしれないが、それ以前の話だ。十何年って続けてきたペースががらりと変わってどうしようもなくなるんだろう。俺だって今クビだって言われたら少しは動揺する。
 俺には支えるべき家族もいなけりゃ、守らなきゃいけない家庭もない。そこんとこは違うけどな。

 そうして俺は今日も家へ帰る。誰も待ってない、寂しい我が城へ。いつものように、座って帰れる電車をホームで待つ時間は携帯のチェックだ。届いているメールのチェック、それから今日俺が送ったメール。確認はしているんだが、取引先に失礼がないように再度チェックしなきゃな。一度やらかして痛い目にあったので、そこんとこは注意している。
 とは言っても今日仕事で送ったメールは一件。普段は会社のパソコン、郵便、訪問で用事を済ませている分、携帯でやり取りすることはほとんどないに等しい。携帯を使ってもほとんど通話だ。その唯一の一件も、取引を通じて仲良くなったやつが、憐れ携帯をトイレに落としお釈迦にしたので、番号をもう一度教えてくれってやつだった。会社のパソコンに紛れ込んでたそれに、俺の携帯から直接返事をした、その履歴が残っている。内容を見ても、別に注意するようなことは一つもない。
 時計を見るとそろそろ電車も来る。俺はさっさと携帯をしまおうとして――間違えた。メール画面を閉じるつもりで、自分の送ったメールにあった番号をクリックしてしまったんだ。もちろん、自分の番号なので、すぐに話中になって切れる。そういや前にそういう怪談があったな。自分の電話番号にかけると、切れるはずなのに繋がるって。そんなことは実際ありえない。まあ、ありえないことだから怪談になるんだろうけどな。
 やがて、昨日とまったく同じように電車は滑り込んできた。俺の後ろにはくたびれた感じのサラリーマン、彼氏相手か電話をするOL、塾帰りらしき高校生や飲んで上機嫌の大学生と色んなやつらが並んでいる。もちろん、開いたドアに真っ先に駆け込むのはこの俺だ。
 シートに腰かけたとたん、どっと疲れが襲ってきた。これも毎日同じだ。よくあの睡眠時間で疲れが抜けると思う。先輩が言ってた、人間はそう過労で倒れたりはしないって言葉はまさにそうだ。かなり体力を消耗しているはずなのに、俺は今日も元気に会社へ行った。
 うとうとしながら車内を見渡すと、発車までまだ五分はあるというのに席は全部埋まり、立ってつり革を握る人が目立ちだす。ドアの真横に座った俺の横、手すりに掴まっている大荷物のOLがこちらをちらちらと見てくる。髪をかき上げながらどっとため息をついたり、わざとらしく脚を揉んでみたり。だが、俺がそ知らぬふりを続けると諦めたのか、隣の車両へと出て行った。ガラス越しに見ていると、俺よりちょっと若めの、人の良さそうなサラリーマンが席を譲っているのが見えた。やっぱりな。でも俺は勝者だ。そう自分に言い聞かせる。こんなすわり心地のいいシートを、他人に譲ってたまるもんか。車内は常に戦場なんだよ。
 降りる駅まで約二十分。このつかの間の勝利を噛み締めて、しばし休息を取ることにしよう。

* * *

「あのう、大丈夫ですか?」
 揺さぶられてふと目を覚ますと、青い空が見えた。何だ、こりゃ夢か。今どこら辺だ。もう豊中にはついたのか。だとしたら早く起きないと。あと二駅しかない。もしかしてアレか。この覗き込んでるお兄さんは、俺が乗り過ごして悲しいタクシー料金を払わないで済むようにしてくれる優しい妖精さんか。
 いや、そんなはずはない。意識ははっきりしてる。ただ、風景がおかしすぎる。
「ここどこだ」
 素直に口にしてみると返事が返ってきた。
「ここはですね、パオズ山ですよ」
 パオズ? 中華料理か何かか? そんな名前の山、中学校でやった地理には出てこなかったな。きっと地域限定のマイナーな山か通称なんだろう。
「あなたはどちらから来たんです?」
「俺か? 大阪だよ」
「オオサカ?」
 って何で俺は、こんな旅行者みたいな話をしてるんだ。違う。俺は早く起きて電車を降りなきゃ――ああ、こうしてる間にも電車はどんどん進んでいくんだ。それで俺はきっと、川西能勢口あたりで目が覚めて、結局タクシーのお世話になるんだ。くそっ。出てくるだけ出てきて、さっぱり役に立たない妖精だな。
「オオサカってどこにあるんですか?」
 彼は俺の気持ちなんてさっぱりわかっちゃいない。目をきらきらさせて何なんだ。
「すみません。よく知らない地名だったもので。それで、あなたはそのオオサカってところからここまでどうやって来られたんです?」
 どうやってって、だから俺には電車が。
「電車? それから」
「それからって……あのさあ、今はそんな話してる場合じゃなくて、ですね。俺は起きなきゃいけないんで」
 こういう夢の場合、起きようとすれば自然と目が覚めたりするんだ、たぶんな。だから俺はよっと起き上がった。起き上がって――。
「あれ?」
 起き上がっても風景は変わらない。試しに顔を引っ叩いてみる。確かに痛い。深呼吸をしたら、山の中特有の爽やかなにおいがする。ついでに、目の前の家からは何だかうまそうな匂い。そういや腹減ったな。夜の七時に食ってそれ以来だ。
 ……考えてみれば、普通におかしい。目も見えるし、耳も聞こえる、鼻だって利いてる。手には土の感じがしっかりするし、自分の指を舐めてみれば、よくはわからないが味がした。つまり五感は健全だ。
「あの、もっかい聞いていいかな? ……ここはどこでしたっけ」
「パオズ山です」
「それって何県?」
 今俺がこうやって会話できてるってことは、ここは日本には違いない。どこか聞けばまだ安心できる。警察に行って事情を話せば、何とかなるかもしれない。
 だが、このお兄さんの答えは予想の斜め上を行って、宇宙まで飛んでいきそうなものだった。
「ナニケン……いや、うちは犬は飼ってないです」
 それは狙って言ったのか? ここは笑わなきゃいけないとこなのか? ええと、確か本社の課長に言われたアレだ。ボケにはとりあえず突っ込めって。えーっと何だ、「何でですねん」? いや、俺には恥ずかしすぎてとてもじゃないが言えない。
「いや、犬の種類を聞いてるんじゃなくて、ほら、富山とか神奈川とか青森とか。都道府県名を教えてもらいたいんですが」
 結局俺は無難な返ししかできなかった。俺の営業成績がいまいち振るわないのは、やっぱりボケやツッコミができてないからなんだろうか。
「トヤマ? どっかの山ですか?」
 違う! 富山って言ったら富山県だ。薬の行商で有名な富山県! 神奈川はヨコハマ、青森はりんご!
「あはは……よくわからないですけど、りんごは好きですよ」
 ……ダメだ。俺のレベルじゃ、こいつのボケにはついていけない。到底足元にも及ばない。――いや、待てよ。俺は何か重大な勘違いをしているのかもしれない。日本語が通じるからと言って、日本だとは限らない。現にパラオのどっかでは日本語が公用語になってるって話じゃないか。ハワイだってほぼ日本語が通用する地域なんだ。きっと俺が知らないだけで、地球上にはまだまだ日本語の通じる地域がある。
 だけど。こいつの顔、どう見ても日本人なんだよな。違って中国人かそこら辺か。そうだ。風景からして、中国の山奥なのかもしれない。それできっと、日本と密かに交流があってどうのって歴史的背景があって、日本語を使っている。それだ。まず何人かを問うのが常識だ。
「ナニジン? ……あっ、あの、地球人です」
「へっ?」
「いえ、だから。地球人ですよ」
 ……いや、わかったから。でもちょっとアバウトすぎるだろう。お前、何人って聞かれて地球人って、きょうび小学生でも言わないぞ。
「いや、もっと地域を狭めて。そうそう、俺は日本人。そういうのであなたは何人ですかって――」
「日本人!?」
 俺が言ったとたん、やつは素っ頓狂な声を上げた。そんなに日本人ってのが珍しいってことは、やっぱりここは日本じゃないんだな。別に心霊的なことを信じるわけじゃないが、神隠しってやつに俺はあったんだ。きっとな。世の中、科学だけでは証明できないことがゴマンとあるさ。でも神様もさ、隠すんなら日本国内くらいにしてくれたら、明日の仕事に差し支えなくてよかったんだけどな。海外じゃあ、あと数時間で帰るのはまず無理だ。
「日本人ってあの日本人? やだなあ」
 だが俺はまたしてもこいつのボケに翻弄されることになる。アハハ、じゃない。だいたい『あの』日本人って何だ。もしかしてここでは、チョンマゲとかエコノミックアニマルとか、そんな古い単語が飛び交ってるのか?
「でも何だか嬉しいなあ。僕、あの漫画大好きなんですけど、みんなに言っても面白くないってばかりで。でも、面白いですよね!」
「は?」
「僕ね、ハイスクールに行ってる時に教えてもらったんですよ。普段漫画なんて読まないんですけど、あれはもう、本当に面白くって。お母さんが『漫画なんか読んじゃいけねえ!』って言ったんですけど、どれだけ面白いか説得して、ずっと集めてるんですよ」
「は、はあ」
「もうねえ、あの富士山登頂のシーンがすごく好きで。吹雪に見舞われてもう駄目かって時を乗り越えて、その後のあの初日の出! あの時はもう、感動でぞわぞわきましたね!」
 悪いが俺はそんな漫画は知らない。俺が読んでるのは週間少年ジャンプだけだ。まあ、囲碁が漫画になって人気を集めるんだから、登山漫画だってアリだろう。あのテレビによく出てる登山家が監修してたりするに違いない。

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