文字サイズ: 12px 14px 16px [真夜中の青空]-02-

「それで、僕も富士山登ってみたいなーなんて。ははっ」
「登ってみたらいいじゃないか」
「えっ?」
「まあ、確かに日本まで行くには金がかかるかもしれないけど。確か五合目までは車で行けるし、ある程度登山に慣れた人間なら登れるって言うし。そういや前テレビで、じーさんが毎年富士山登ってるって言ってましたよ。毎日トレーニングはしてるみたいだけど」
 そういや俺にもあったよな。小さい頃漫画読んで、ギリシャ行って聖闘士なるんだー!とか。憧れるのはぜんぜん悪いことじゃない。むしろ俺のよりもずっと実現可能だ。やろうと思えばやれないことじゃない。
「ふふっ。面白い人ですね」
「そうかな?」
「そうですよ。――でもなあ、本当に富士山があったら、登ってみたいな」
 ……富士山が「あったら」? 何言ってるんだ、こいつ。あったらって、今行き方説明したばっかりだろう。聞いてなかったのか?
「だから日本は遠いかもしれないけど、富士山なんて、東京からも案外近いしさ。行こうと思えば――」
「またまた。現実にないのに行けるわけないじゃないですか」
「いや、あるんだよ。日本って国も富士山って山も。ちゃんと存在してるの」
「そんなあ。いくらなんでも騙されませんよ。そんな子供みたいな――」
「あるものはあるんだよ!」
 とっさに立ち上がって叫んで、俺ははっとした。目の前のやつは驚いて目を丸くしている。そりゃそうだろう。いきなり叫ばれたら俺でもビビる。でも勢いは止まらなかった。
「あのな、ここがどこだか知らないけど、こんな山奥だから情報がないっていうのもあるかもしんないけど! 日本って国はちゃんと存在してるし、そこに富士山って山もあるんだよ。漫画の世界じゃない。ちゃんとそういうとこがあって、それをネタにしてるんだよ。お前が知らないだけで、ちゃんと地球に存在してるの!」
 言ってからしまったと思った。初対面のやつに言うような台詞じゃない。しかもそれ以上にマズったことに気付いたのは、今までにこにこしてたこいつの豹変した顔だ。
「お前が知らない?」
 どうやらこのお兄さん、知識には相当自信があったみたいだ。俺はそのプライドってやつを傷つけたらしい。
「知らないって、知らないのはそっちの方じゃないか! こう見えてもね、僕は地球を何周もしたことがある。人の寄り付かない場所だって、いくらでも行ったことがあるんだ! 君こそ、漫画と現実の区別がついてないんじゃないのか!」
「なっ……」
 あまりの迫力に俺は完全に気圧されてしまった。こいつ、本当にさっきの人間と同一人物かってくらい違う。やばい。こういうやつにはあまり関わらない方がいい。
 自分から喧嘩を吹っかけといて何だが、俺はさっさと退散することにした。こういうやつはえてしてトラブルの元になったりする。山を歩き回って、他の民家に逃げ込んだ方が得策だ。だが、この場からどうやって逃げればいい?
「だいたい人をおちょくるのも限度ってものがあるよ! 冗談で言う分には構わないけど、それで人に喧嘩を売るっていうのはやりすぎだろう!」
 結果として俺は逃げられなかった。あっと気付いた時にはもう胸倉を掴まれ、やつの顔が十数センチのところにあった。しかも、やつは俺よりも背が高い。力も強い。これはもう、万に一つでも勝てる可能性はない。よくてボコボコ、最悪その末に俺の死体を山の中にぽいっと……ダメだ。想像するだけで恐ろしくなってきた。悪いが俺は殴り合いなんてほとんどしたことがない。こんなとこでいきなりゴングを鳴らされてももうなすすべなしってやつだ。これはもう覚悟して――。
 だが、ぎゅっと目を瞑った俺には意外な言葉が投げかけられた。
「……ごめんなさい」
 掴まれる感触がなくなっておそるおそる目を開けると、やつは先ほどとは打って変わって、元の純朴そうな青年に戻っていた。こいつは大魔神か。あの、顔がぐわーっと変わるやつそっくりだ。
「暴力はいけませんよね。本当にすみません」
 しかも、ばっと頭を下げるその潔さがめちゃくちゃかっこよかった。こいつ、俺なんかよりずっと人間できてる。
「その、俺こそ……怒鳴ったのも悪かったし、最初に喧嘩吹っかけたの俺だし……すんませんでした」
 それに比べてこの俺の情けなさといったら。営業ではぺこぺこ頭下げてばっかなのに、肝心のところでダメなんだな。
「でもさ」
 本当にこれだけは信じてほしい。
「その、あんた――あなたは、俺のこと頭おかしいって思うかもしれないけど、俺は確かに日本に住んでて、それで、家帰るために電車乗って転寝して、気付いたらここにいたんだよ。本当にそれだけは信じてくれ!」
「えっ、でも……」
「そうだ! 証拠、証拠があれば信じてくれるよな、な?」
 俺は慌てて内ポケットに手を突っ込んだ。財布の中に免許証があるし、会社の名刺だって持ってる。かばんの中には仕事の書類やパソコンが入ってる。俺の身分を証明するものはいくらだってあるはずだ。
「ほら、これ! これ見てくれよ。ちゃんと東京都公安委員会って書いてあるだろ? 本籍は東京都、住所は大阪府。それからこれ、俺の名刺だ。ここんとこにちゃんと大阪支社って書いてあるだろ? 本社は東京都って!」
「た、確かに……」
「それからこれ! 保険証にだって俺の名前と住所が書いてある。な、書いてあるだろ?」
 もう俺は必死だった。かばんの中を漁りまくり、とにかく何でもいいから俺を証明できるものを手当たり次第に引っ張り出しては見せた。
「ほら、この手帳見てくれよ。これが東京、で名古屋、大阪の路線図。俺は、この電車に乗って、ここに帰ろうとしてたの。ほら、定期だってここにある。これが電車の時刻表で――」
「わかった。わかったから、落ち着いてください。そうだ、お茶でも飲みながらゆっくり話しましょう、ね?」
 まごついた手で時刻表のぺらい紙を開こうとした俺にそう言って、お兄さんは家を指差した。さっきも思ったが、明らかに日本風ではない。中国っぽい建物とその横の白い、お椀をひっくり返したみたいな家と――何か、どこかで見たことあるな。形からしてSF映画か何かか?
「ほら、とにかく荷物をしまって」
「あ、ああ」
「あっ、そうだ。お名前……は、さん、ですよね」
 俺の渡した名刺を彼はすらっと読み上げた。ということは日本語が読める上に漢字も読めるんだな。
「僕、孫悟飯って言います。よろしく」
 そう言ってやつ――孫悟飯は手を差し出してきた。どうやら握手を求められているらしい。孫悟飯。孫が苗字か? だとしたらやっぱり中国人……待てよ。孫悟飯?
「孫が苗字で、悟飯が名前?」
「そうですよ?」
 へえ、へえ。聞いた話によると漫画のキャラの名前を子供につけるって人もいるって言うが、こいつもその類なんだろうか。いやでも、お母さんが漫画読むなって言ってるって言ってたっけな。だとしたら、偶然の一致ってやつか。
「僕の名前が何か?」
「いや、俺が昔読んでた漫画にさ、孫悟飯ってキャラが出てくるんですよ」
「ええっ、そうなんですか?」
 聞いたとたん、孫悟飯は目を輝かせた。やっぱ、そういうのって興味引くんだな。
「まあ、主人公じゃないんだけど、主人公の息子で――そういや、主人公のじーさんも孫悟飯って名前なんだよ」
「へえ! 奇遇ですね。僕のおじいさんもそうなんです! まあ、血が繋がってるわけじゃないんだけど」
「そうなんだ」
「お父さんを拾って育ててくれた人で、お父さんがいつも『じっちゃんは』って話してくれてたんですよ」
 何だよ。何だかいい話じゃないか。つーかそれ、ドラゴンボールまんまだろ。もしかしてこいつ、知ってて言ってるのか? 初対面の人間を疑うのは悪いが、正直話ができすぎだろう。
「あのさ、ドラゴンボールって漫画知ってるでしょ?」
 でも、そう笑って言った俺にやつは――なんでそんな顔するんだよ。そんなに驚くことか? 日本の漫画を日本人が知ってても別におかしいことじゃないだろう。あっ、こいつは日本って知らなかったっけ。
「どうしてドラゴンボールのこと知ってるんです? 漫画って何です?」
「は?」
「あっ、もしかしてセルとの戦いをテレビで見た人が漫画にしたんでしょうか? いや、でもそしたらドラゴンボールやおじいちゃんのことは知らないはずだし……でも調べたらもしかして……」
「いや、あの。そういう漫画知ってるだろって」
「知りませんよ、そんなの。その、どういう話なんです?」
 そう聞いてきた孫悟飯の顔は真面目も真面目、超真面目だった。嘘をついているようには見えない。いいや、相当の演技派ってことも考えられる。それで俺が言ったら実は知ってますよって算段か?
「どういう話って……お前、知ってて言ったんだろう?」
「知らないから聞いてるんです。手短でいいから話してくださいよ」
「手短って言ってもかなり長い話じゃないか」
「じゃあ、そこに出てくる孫悟飯の話だけでもいいです。聞かせてください」
 あまりの必死さに負けて俺は頷かざるをえなかった。何だってこいつはこんなに真剣なんだ。
「えっと、順を追うと。まず、さっき言った通り、孫悟飯はもともと、主人公の孫悟空を拾った人間で、それで――」
 とにかく覚えているだけの話を聞かせるうちに、孫悟飯の顔はどんどん険しくなっていった。そしてついに、息子の孫悟飯の話になった時。
「ピッ、ピッコロさんを知ってるんですか?」
「そ、そりゃメインキャラの一人だからな」
 何だ、この食いつきのよさは。漫画の孫悟飯もピッコロさんピッコロさんとうるさかったが、こいつもさりげなくピッコロ好きなのか。いや、確かに人気はある方だろうが。
「ピッコロさんのことも教えてください!」
 おい、増えてるぞ。話が長くなるじゃないか。まあ、しょうがない。
「それでさ、悟飯をかばってピッコロは死ぬんだよ。で、その後、ピッコロのふるさとだってナメック星って星に行って、ドラゴンボールを集めて、そこで同じようにボールを集めてたフリーザってやつと戦うんだ」
「それで!」
「そ、それからえーっと、ドラゴンボールでピッコロを生き返らせて、それから……何だっけ。ピッコロが何とかってやつと合体して、でもぜんぜん役に立たなくて……おい」
 何でいきなり顔近づけてくるんだ。しかもめちゃくちゃ顔が怖いぞ。大魔神再来だ。
「訂正してくださいっ」
「へっ?」
「ピッコロさんは第二形態のフリーザと互角に、いや勝ってたんですよ! 役立たずなんてふざけるにも程があるっ」
「でもそれは漫画で……」
「じゃあ、その漫画を描いた人に会わせてくださいっ。抗議して描き直してもらいます!」
 いや、それはさすがに無理だろう。落ち着けよ。あれ? 俺フリーザが変身したなんて言ってないのに。やっぱりこいつ知ってて言ってるのか。
「……まあ、抗議はまた後にして。その後、どうなってるんです?」
 まだ聞くつもりなのか。知ってるくせに。
「もういいだろ。だいたい、何で話知ってるのに聞きたがるんだ?」
「僕はその漫画読んだことありませんよ」
「いや、読んでなきゃ知ってるわけないだろう。フリーザの第二形態とか」
「僕としてはその作者の方が不思議ですね。どうしてそんなことを知ってるのか」
「どうしてって、そらその人の作った話だからに決まってるだろう」
「作った? それは全部、僕が体験してきたことですよ。おじいちゃんの話もピッコロさんの話も。ナメック星に行ったことだってそうです」
 その言葉に俺はピンときた。ああ、やっぱりこいつとは関わらない方がよかった。今わかった。こいつはたぶん、自分がドラゴンボールの孫悟飯だって『思い込んでる』やつなんだ。ちょっと頭がおかしいんだ。
「……あなた、僕を疑ってるでしょう」
 そのくせ勘は鋭いんだな。ああそうだよ、疑ってるよ。その頭の中身をな。
「そんなことを言うなら僕だって疑ってますよ。だいたい、漫画の中の地名持ち出して信じてくれって方がおかしくないですか」
「そりゃこっちの台詞だ。漫画を自分の話だって思い込んでる方がうんとおかしいぜ」
「思い込んでる? ふざけるな。何だかんだと手の込んだことをして。お前、本当は誰なんだ。何の目的があってここに来た」
「目的ィ? こんなクソ田舎に何の用があるんだよ。頼まれても来ねえよ」
「じゃあ、帰れよ」
「ああ、帰るとも。こんなとこ、一秒だっていたくないね」
「ぐだぐだ言ってる暇があったらとっとと消えろっ」
「はいはいさよなら。それじゃあなっ」
 それだけ言って、俺は道らしきものへと歩き出した。道っていっても舗装なんてされてないただの道だ。しかもほぼ獣道ときている。こんな山の中によく住んでるよな。どこ見たって人の気配なんてない。もしかしてあいつ、ここに隔離されてんじゃないか。ああ、それなら合点もいく。あいつはきっと、病院でもう社会生活は無理だって診断されて、ここに隔離されてるんだ。相手にした俺が馬鹿だった。いろいろムカつくことは多いがもう忘れよう。そんなことよりさっさと民家を見つけて警察に保護してもらうんだ。なに、道に沿って歩いていれば民家だって見つかるだろう。どんなとこにでも人間は住んでるもんだ。
 俺は希望に縋って歩き出した。あの馬鹿とやりあったせいで疲労困憊、少々ふらつくが、まあ大丈夫だろう。

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