文字サイズ: 12px 14px 16px [真夜中の青空]-03-

 歩き始めてかなり経った。俺は正直限界だ。道は外れてないはず、だが行けども行けども木ばかりで、どこにも民家なんて見当たらない。くそっ、本当にどこなんだここは。
 しかも眠くなってきた。というより、脚がもつれて何度こけかけたか。本当にそろそろ限界かもな。
 空を見上げれば日はまだ高い。時計を見たら日付は変わらず十二時半だった。ということは、終電に乗ったあの時からもう十二時間経ってるってことだ。そういや会社に連絡してないな。今からでも間に合うか。言い訳は風邪で熱が、でいこう。ありがちな言い訳だが、ここは一番認められる理由だからこそありがちなんだとポジティブにいこう。
 有難いことに携帯の電池はまだ残っている。電話ができるかどうかはわからないが、アンテナは十分届いてるから大丈夫だろう。履歴から辿った番号を選んで電話をかけると、三回のコールの後、繋がる音がした。
「もしもし」
 ん? 普段の部長の声と少し違うような。まあ、いいか。
「もしもしです。ちょっと熱が出てしまって……」
 わざとらしくない程度にごほごほと咳をすると、
「……どちら様かな」
 ――はい?
「どうやら番号をお間違えのようだね。まあ、お大事に」
 そう言って電話は切れた。……嘘だろ。だいたい部長は「どちら様」なんて言わない。あのおっさんは、たとえ取引先だろうと常に関西弁だ。実際に風邪をひいて電話した時だって、
「まあ、風邪ならしゃあないわなあ、ほんま。あれやわ、彼女さんにうまいおかいさんでも作ってもろぉて、ゆっくり休み。あれやで、彼女さんのおかいさんだけやなくて、ちゃんと薬も飲むんやでぇ。ほな!」
 と、一気に言われてちんぷんかんぷんのまま電話を切られたこともある。まさか部長、いきなり異動させられたとか。いや、それなら番号間違いじゃない。俺の名前だってちゃんと伝わっているはずだ。それに携帯を何度見返しても番号は合っている。
 こうなりゃ今度は会社の受付だ。これで営業に繋いでもらえばいい。
「もしもし」
 今度は品の良さそうな女性の声だ。でも、受付にこんな声の子いたかな。言っちゃえば、ちょっと年を食ってるような……。
「あの、営業部のですが」
「営業部? あらあ、私会社のことはよくわかりませんの。ちょっとお待ちくださいね」
 ……おい。受付が会社のことわからないわけないだろう。何がどうなってるんだ。疑問符ばかりで待っていると、音楽が途絶えた。
「もしもし?」
 今度はもうちょっと若い声だ。だが、相変わらず記憶にない。しかもずいぶん高飛車だな。
「あの、営業部のなんですが」
? そんなやつ知らないわよ。あんた誰?」
 わかった。確かにこの番号は間違っている。受付は間違っても「あんた」とは言わない。
「ちょっと、何とか言いなさいよ。――もうっ、母さーん。これ、いたずら電話だわあ」
「あらあ。ごめんなさいね、ブルマさん」
「いいのよお、気にしないで。――あのね、私はあんたほど暇人じゃないの。じゃ、切るからね。バイバーイ」
 俺が何か言おうとしている間に会話は終わって切れた。嵐のような女だな。まず人の言うことを聞いてくれ。何がいたずら電話だ。いたずらじゃない、言い訳電話だ。おいおい、ちゃんと聞けよブルマさ……ん?
 携帯を握り締めたまま俺は固まった。どこのどいつだ、ブルマって。しかもあの馬鹿のせいか、ますます混乱してきた。孫悟飯にブルマってなあ。いや、勘違いだ。きっと、俺が知らないだけで、案外ありふれた名前なのかもしれない。この地域では。そうだ。そうに違いない。
 とにかく携帯の番号が当てにならないことはわかった。番号は合ってても、かかる場所が違うんだ。日本じゃないから。そう、ここは日本じゃない。日本語は通じるが日本じゃない。それがわかっただけでも大きな成果だ。
 しかし疲れた。腹も減ったし何より疲れた。会社帰りにいきなりこんなとこに来て、疲れない方がおかしいよな。頭が痛いのもたぶんそのせいだろう。ちょっと。そう、ちょっと休んで、また家を探そう。その方がきっと効率もいい。獣が出てきたら終わりだが、今まで歩いてきて野犬やらには会わなかった。きっと大丈夫だ。うん、そう信じよう。とりあえず道沿いの木で休む。それなら、もし人が通りかかった時に声をかけてくれるかもしれない。
 そうだ、きっとそうだ。そう繰り返して俺は手ごろな木の根元に腰を下ろした。ああ、もたれるのはちょっと辛いな。横になろう。
 かばんを枕代わりにして横たわり、俺は静かに目を閉じた。鳥のさえずりが心地いい。

* * *

 ふと目を覚ましたら俺の部屋じゃない。じゃあ、どこだ。
 目の前に見えているのは天井だろう。そんな気がする。右を向いたら、木枠の窓があり、ほんの少しだけ開いていた。空は夕暮れ、見える森の辺りにカラスの鳴き声が聞こえる。こんな童謡みたいな夕暮れなんて、田舎のばあちゃんち以外で見たことない。
 そうだ。俺は確か、見知らぬ土地にいたんだった。そういや見ていた風景とどこか似ている。ってことはやっぱりこれは夢じゃないのか。正真正銘の神隠しってやつか。冗談じゃない。
 確かに、森の中とか山の中でならわかる。実際、そういうことが起こりそうなところはある。けどなあ。電車の中で寝てて神隠しなんてどうなってるんだ。そんなにほいほい神隠しにあってたら、普通の生活すらできやしない。だいたい、一緒に乗ってた乗客はどうしたんだ。俺一人だけか。それともみんな色んな場所に飛ばされたのか。隣に座ってたあの女の子も、目の前に立ってた、イヤホンして新聞読んでたサラリーマンも、みんなどこかに行ってるのか。この俺みたいに。そうだとしたら、今朝のニュースはそれで持ちきりだろうな。いや、俺が一人消えただけでもニュースだろう。目の前で人が消えたらまず騒ぎになるよな。きっと全国ネットで放送される。名前がわかったらすぐ報道されるよな。母さん、朝のワイドショー見るのが日課だから、きっと目にしてるはずだ。卒倒とかしてないだろうな。父さんも母さんも姉貴たちも、豪快な性格してるけど、ひょんなところで心配性だからな。一家全員パニックになってるんじゃないだろうな。――早く帰りたいよ、日本に。
 何だかしんみりしてしまって、ふと顔をずらすと、頭から何かが落ちた。手で探って拾い上げてみると、たたまれた白いタオルだ。そう、ちょうど熱出した時に乗せるやつ。ってことは俺、熱出してたのかな。それで、誰かが助けてくれて看病してくれたんだろうか。
 神ってやつは俺を見放してなかったんだ。まあ、神隠しのことはチャラにしてやる。こうやって助けてくれる人がいるんだからな。しかし、あの山道で誰なんだ。ふもとの住民かな。まず、あの馬鹿野郎じゃないことは確かだ。
 その時、後ろで木の軋む音がした。続いて、ギギギと木の鳴る音。誰かが入ってきたのがわかって俺は振り向いた。
「目が覚めたかい」
 ……何でお前がここにいるんだ。しんみり加減がぶっ飛んだだろうが。
「母さんに買い物頼まれて出かけたんだ。そしたら君が寝転んでて。でもムカついたから無視して町に行った。買い物済ませて戻ってきたらまだ寝てるから、起こして文句の一つでも言ってやろうと思って――そしたら、ぐったりしてたから」
「……疲れて寝てただけだ」
「ただ寝てるだけなら熱は出ないよ」
「疲れてたからだ」
「だったらなおさら――いくらムカつくやつでも、見殺しにはできないよ」
 見殺しにはできない、ねえ。確かに、あのまま夜を迎えてたら死んでたかもしれないな。あくまで可能性の問題だが。
 例の孫悟飯もどきはもう少し部屋に居座る気らしい。ベッドの足元にあった机から椅子を引っ張ってきて、ちょんと座った。ここはこいつの部屋なのかな。馬鹿でかい本棚から溢れた本が、本棚の上にまで積んである。他にはこれといって特色もない、家具の少ない部屋だ。
「君は」
 部屋を見渡していると、ふとあいつが呟いた。
「どんどん歩いていったけど、実はここら辺ぜんぜん民家がないんだ」
 やっぱり、民家はないのか。危なかった。
「普通の人間なら、そうだな。三時間くらい歩いて、やっと一軒あるかな」
 ……どんだけ田舎なんだよ、ここは。もう田舎じゃない。秘境のレベルだ。
「――君の住んでるところはどんなとこなの」
「俺んち? まあ、住宅街だな。俺はちっさいアパートに住んでるけど、周りは似たようなアパートか一軒家か。駅はまあ近いけど」
「へえ。どれくらい?」
「歩いて十分ってとこかな。もうちょっと近いかな」
「近いんだね。ここなんか最寄り駅まで車で二時間だ」
「それ、もう『最寄り』じゃないだろ」
「ははっ、まあね」
 ようやくボケとツッコミが噛み合った。まあ、この範囲なら俺でも突っ込める。
 最初に会った時にも思ったんだが、こいつは子供みたいな顔をしてる。笑うと余計にそうだ。まあ、言動や何からして十九、二十歳ってとこか。でも見た目だけ言えば、高校生と言えなくもない。そういやこいつは学校に行ってないのか。
「学校? 行ってるよ。今大学行ってて、来年から院に行く」
 えっ、マジか。頭おかしいと思ってたけど賢いのか。
「学者になりたいんだ。小さい頃からの夢だったよ。最初は母さんに言われて決めたけど、いろいろやってるうちにね、地球のためにできることないかなあって」
 そこまで孫悟飯と一緒かよ。でも、
「地球のためか……そんなこと、考えたこともなかったな。適当に遊んで、適当に勉強して、大学出て就職の王道だ」
「そういや、名刺くれたもんね」
「ああ。一つ目は半年で辞めた。上司がヤなやつでさ。上にはゴマすって下には威張り散らして、業績は全部自分の手柄にして、失敗は全部俺ら下っ端に押しつけるタイプでさ。まあ、そういうやつも多いって聞くけど、どうしても我慢できなくて。それで今の会社に入って、東京でずっと働いてたら、班長になる代わりに本社から支社に移されて。それで大阪に来た――って、お前、地名知らなかったよな」
「トウキョウは知ってるかな」
「漫画ん中で、だろ」
 言ったら自然と口から笑いが漏れた。そういや、俺はここに来てから、今初めてすっきりとした気分で笑った気がする。
「そうだ。その漫画見せてくれよ」
「うん。いいよ」
 外はもうかなり暗くなっていた。山の中だからか知らないが、普段見ている夕方より暗く感じる。その中、急についた蛍光灯の明かりに目を慣らしている間に、悟飯もどきは本を抱えて戻ってきた。普通のコミックスよりちょっとでかいサイズのやつだ。表紙には半分想像してた通り、少々劇画調のイラストに、また筆で書き散らかしたような激しい文字で『頂』の一文字が赤く書いてある。こりゃまた渋い漫画だな。
「ほら、ここが……」
 ぱらぱらとその中の一冊をめくって悟飯もどきが指をさす。――おお、こりゃ新宿じゃないか。
「新宿だ。西口を出たとこだ」
「そうそう。これシンジュクってとこ。それでこれが――」
「お台場だな」
「じゃあ、これは?」
「六本木ヒルズと東京タワー」
「……ほんとに読んだことないの?」
 ないっつってるだろ。こいつまだ疑ってるだろう。俺も疑ってるけど。でもこれ本当に登山漫画なのか? 東京ばっかりじゃないか。まさか東京タワー登って登山とか言うんじゃないだろうな。
「違うよ、ほら――」
 やつは別の巻を手にとってぱっと開いた。明らかに癖がついている。こいつ、このページだけよく見てるな。
「ほら、このシーン。綺麗だろう?」
 そこには一ページぶち抜きで雲海から登る朝日が描かれていた。確かに富士の朝日はこうやって見える。テレビで見たことがある。
「僕はこの風景を見たかったんだ。でもさ、似たような山はあるけど『富士山』はないから」
 また言ってる。もう訂正するのも面倒だから放っておくけど。
「確かに富士山に惹かれるのはわかるよ」
「そうなの」
「ああ。色んなやつが富士山の虜になっていろいろ残してる。例えばなあ、あんた富嶽三十六景って知ってるか」
 尋ねると悟飯もどきは勢いよく首を振った。知らないだろうな、富士山は知ってても日本は知らないんだから。
「江戸時代……今から三百年くらい前かな、何たらって名前は忘れたけど画家がさ、富士山ばっかり書いた絵があるんだよ」
「富士山を絵に描いたの」
「そうだ。その頃はまだ高いビルも何もなかったから、あちこちから富士山が見えたんだよ。それをいっぱい絵にして残してる。たぶんお前も気に入るよ」
 そういう待ち受けがあったら最高だったんだけどな。残念ながら、俺の携帯には適当な写真やサイトから落としてきたグラビアアイドルの写真くらいしか入ってない。……そうだ! 携帯の中に!
「富士山、富士山見せてやるよ!」
「えっ?」
「俺の携帯、あっ、俺のスーツはどこだ」
「あ、スーツならそこに……」
 携帯を出そうと胸に手を突っ込んで今更気付いた。そうだよな、普通寝かせる時にスーツのままは寝かせないよな。
「その内ポケット……そうそう、そこに俺の携帯あるだろ?」
「携帯……?」
「そう、それだ、それ」
 やつが取り出したものを確認すると、あいつはふと首をかしげて、
「これが、携帯?」
 そう、それが携帯だ。そうか、もしかして携帯を初めて見たのか。うんうん、文明に触れるのは悪いことじゃないと思うぜ。

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